親鸞聖人上陸の地(第2回)/香華堂報105号[2009,10/01発行]

居多神社
【所在地】新潟県上越市五智6-1-11

まだ雪が残る4月はじめに親鸞聖人はお供の性信房、西仏房と共に上陸したといわれています。伝える所によれば、「浜の惣助」という人物が案内し、まずは居多ヶ浜近くの居多神社に参拝されたといわれています。場所は居多ヶ浜の手前100m程のところにあります。聖人一行が神社を訪れられた時、折りしも夕日が海に輝き、南無阿弥陀仏のお名号が明らかに現れたようすに感銘を受け、日の丸の中に南無阿弥陀仏と書かれ、これを「日の丸のお名号」といい、ここ居多神社にあります。早速拝殿に上がったり境内を見回したりして探しましたが見当たらないので、神主さんにお聞きすると、「事前に予約していただいて、なお且つ、数名以上の団体でないとお見せできない」といわれ、泣く泣く引き上げました。必ず事前予約が必要です。また聖人はここで歌を詠まれて赦免を祈願されたそうです。石段の右側にその石碑があります。『すえ遠く 法を守らせ居多の神 弥陀と衆生の あらん限りは』と詠まれ、その句を詠まれたところ一面の葦が、全て片方に寄って合掌の姿になったと伝えられています。新潟の地元の資料などでは、これが親鸞聖人七不思議の第一番になっていました。そして、境内にはなんと親鸞聖人の銅像が・・・。他宗の寺院で親鸞聖人の木像や銅像を見かけたことがありますが、神社で見たのは初めてのことでした。この辺が新潟の大らかなところですね。京都の神社では考えられません。駐車場には梅原猛さんが歩いた上越の地として、親鸞聖人ご旧跡を中心とした地図があるので、それを参考にして周るのも面白いかもしれません。また隣には「五智歴史の里会館」があり、無料で利用できる休憩室があります。また観光ガイドや観光ボランティアの方もいらっしゃるので、立ち寄られると色々な資料を入手したり質問もできるので、より深い観光の手助けとなります。


おすすめ情報

『史跡』
親鸞聖人御詠歌石碑

『掛軸』
日の丸のお名号(閲覧には予約が必要)

『七不思議』
片葉の葦(親鸞聖人七不思議第一番)

親鸞聖人上陸の地(第1回)/香華堂報104号[2009,09/01発行]

居多ヶ浜
【宗派】居多ヶ浜記念堂・見真堂(真宗大谷派林正寺管理)
【所在地】新潟県上越市五智

1207年(承元元年)2月の承元の法難により、流罪となった親鸞聖人は同年3月16日、35歳の時に京都を発たれました。北陸路を歩かれ親不知の断崖絶壁を進み、糸魚川市の東、木浦から船で居多ヶ浜に上陸されたのは3月28日のことでした。延べ13日間を要されたことになります。 居多ヶ浜周辺のご旧跡には、新潟県上越インターから10分程で到着します。居多ヶ浜はそのご旧跡の一番奥にあります。広場に車を止めて、小さな展望台からの眺めを見ると、よくぞご無事でここまで来られたという思いがこみ上げてきました。手前には『親鸞聖人上陸の地』の看板があり、左手奥にはご伝鈔を引用された真宗大谷派門首の石碑があります。左手の小さな門をくぐると、居多ヶ浜記念堂と八角の見真堂があります。ここは上越市住吉町の真宗大谷派林正寺様が管理されていて、記念堂ではお寺の門徒の方にお茶を振舞っていただけました。正面には六字名号、向かって右に親鸞聖人、左に恵心尼公の掛軸がかかっています。堂内には曽我量深師、金子大栄師、豊原大潤師の書かれた『海一味』『大信海』『本願海』の額が掲げてありました。 外にでて今度は見真堂へ。中には親鸞聖人のお木像が安置されています。見真堂をでて左手の道を入ると越後七不思議第一番である「片葉の葦」があります。これは、親鸞聖人の熱心な信心に、葦の葉も一諸になって手を合わせ、親鸞聖人がこの地を去るときには、葦が別れを惜しんで手を合わせたと伝えられています。 さて、広場の駐車場に戻るときに、『念仏発祥の地』の石碑がありました。これは、元大谷大学教授・金子大栄師の筆によるものです。記念堂の冊子によるとこの文字を依頼されてからしばらく考えられ、「親鸞聖人はこの地で初めて民衆の生活の場での救いの念仏になったから」と一筆書くことを承諾されたようです。重みのある言葉ですね。最後に海岸の方に行くと、いくつも『親鸞聖人御上陸之地 居多ヶ浜』の石碑があります。その中のひとつ、‘浜’が旧字の‘濱’である石碑が一番古い石碑だそうです。海風をあびて、いにしえの親鸞聖人の思いをはせられてはいかがでしょうか。 いる。


おすすめ情報

『建築』
居多ヶ浜記念堂 
見真堂

『七不思議』
片葉の葦(親鸞聖人七不思議第一番)

親鸞聖人ご入信の地/香華堂報103号[2009,08/01発行]

安養寺(吉水草庵)
【宗派】時宗
【所在地】京都市東山区八坂鳥居前東入円山町

八坂神社の南側の道をひたすら道なりに東へ登ると、円山公園頂上に吉水の草庵で親しまれている安養寺があります。ここは元々天台宗最澄の開祖ですが、法然上人は43歳から75歳の1207年(承元元年)までここを本拠として布教されました。また、親鸞聖人は1201年29歳の時に六角堂観音菩薩の夢告によってここへ通われ浄土真実の教えをお聞きになられました。私は八坂神社あたりから歩きましたが坂道で、道のりもありましたので足に自信のない方は車で行かれることをおすすめします。 お盆前ということもあったのでしょうか、お寺の山門前にはお墓まいりにこられている車が数台止まっていました。階段を上って行くと正面に本堂がみえます。その階段の両側にお墓が並んでいます。どこのお寺でも見受けられますが、「お墓参って本堂参らず」で本堂には人っ子一人いません。 お堂は通常の屋根に宝形の屋根がもう一段のっている珍しい形です。中に入ると正面にご本尊である阿弥陀如来像、向かって右に法然上人像、左に親鸞聖人像が安置されています。このお像は信決定(しんけつじょう)・御満足の像とよばれ、大正14年高力喜嗟という妙好人が100万人の方々と結縁して親鸞聖人の像を造りたいと願をたてられ、南無阿弥陀仏と書いた名号の下に結縁者の名前を書き、それを灰にしたものを漆とまぜて造られたそうです。仏師は中村吟艸という人で昭和14年に完成したものだそうです。外陣上には『吉水草庵』の文字がありました。これは句仏上人の名で親しまれている東本願寺23代法主 大谷光演氏の書です。 境内外南には吉水の発祥となった吉水弁財天があります。ここには今も井戸があり、明治維新前まで、知恩院や東大谷からも正月の仏前の初水として年々汲みにこられたそうです。円山公園の近くなので、ちょっとした時間がある時には吉水の井戸を探してみてください。


おすすめ情報

『時期』
春(桜)
秋(紅葉)

『建築』
本堂 『祖師像』
信決定・御満足の像

『史跡』
吉水の井戸

親鸞聖人百日間参籠の地/香華堂報102号[2009,07/01発行]

頂法寺(六角堂)
【宗派】天台宗
【所在地】京都市中京区六角東洞院西入堂之前248

延暦寺で修行されていた親鸞聖人はやがて比叡山を下りられて百日間参籠され、その九十五日目に聖徳太子の示現を受けて法然上人の元へ行かれるきっかけとなったのがここ頂法寺です。お堂が六角形をしていることから京都では六角堂と呼ばれ親しまれています。 日曜日の早朝、子供を自転車に乗せて行ってきました。場所は京都の中心地にあり、中心を示す六角形のへそ石があります。 親鸞聖人が六角堂へ参籠されたことは妻である恵信尼公が書かれた文書に記されています。浄土真宗本願寺派の前御裏方様がその文書を現代語訳された銘板が、向かいにある六角会館にあります。さて、境内に入ると、大きな柳の木と松の向こうに六角堂があります。軒には大きな提灯がぶら下り、その向こうには鰐口と鈴緒があり、それを鳴らしてお参りします。鈴緒は地面ギリギリまでの長いものなのですが、うちの子供はその鈴緒の先が麻になっているのがおばけのようで怖がっていました。六角堂の裏手に回ると大きなビルがそびえています。ここは『池坊』と呼ばれ、室町時代以降多くの生け花を輩出した所で、華道発祥の地として有名です。また、池には白鳥が数羽いて丁度エサの時間で子供も喜んでいました。その池の右側には聖徳太子二歳の像が安置されている『太子堂』があります。六角堂右手の階段を上がって行くと親鸞堂があり、中には夢のお告げを聞いておられる座像の『夢想之像』と六角堂参籠の姿を自刻されたと伝えられる立像の『草鞋の御影』が安置されています。お堂の向かい側には100日間参籠されたとされる親鸞聖人の銅像があります。六角堂は京都市内中心部にあり、交通の便もよく、どなたでも気軽におまいりできる場所にあります。


おすすめ情報

『時期』
春(早咲きの御幸桜)

『建築』
六角堂 明治八年再建
親鸞堂

『祖師像』
夢想之像・草鞋の御影

親鸞聖人ご修行の地 第2回/香華堂報101号[2009,06/01発行]

延暦寺
【宗派】天台宗
【所在地】滋賀県大津市坂本本町4220

前号からの続きです。駐車場をでて、今度は急カーブを切るようにして、根本中堂方面に向かいます。今回は根本中堂を通りすぎて、西塔に向かいます。西塔で車を止めて、階段を降りて行くと左側に神社があります。その神社の手前に『聖光院跡』という石碑があります。ここが、親鸞聖人が堂僧として修行された聖光院があった場所です。さらに階段を降りて、左に回ったところに、『親鸞聖人ご修行の地』の石碑があります。その先に、道をはさんで両側にお堂があります。このお堂は廊下でつながれ弁慶がその廊下を天秤棒がわりに担いだという逸話から『にない堂』といわれます。1595年に創建された右側が法華堂、左側が常行堂です。親鸞聖人がいらっしゃった頃からはだいぶ後の建築物ですが、当時修行されていたお姿を思い起こさせます。現在でも、法華堂では座禅の常座三昧を、常行堂では念仏を唱えながらお堂の中をまわる念仏三昧が行われるそうです。 最後に一番奥の横川です。恵信尼公ご消息に『殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましける』の一文があります。これはここ横川にあった楞厳三昧院(りょうごんざんまいいん)の常行堂の堂僧であったとされています。横川の中堂へ向かう道沿いに、比叡山で修行された各宗の祖師の生涯の案内板があり、これを見ながら、奥へ進むのもまた一興です。 さて、奥へ進むと池があり、その向こうに赤い木組みをされた横川中堂が見えてきます。その手前を右へ進むと本堂正面に行き着きます。ここ横川では親鸞聖人が勉学されたお堂も石碑も見当たりません。しかし、注目すべきものがありました。横川中堂の参道を山手に登って行き、突き当たりを右に折れて進むと、『恵心院』があります。ここのお堂で親鸞聖人が選定した七高僧の一人、恵心僧都が『往生要集』を書かれたそうですが現在のお堂は新しく、ご命日の6月10日に報恩法要が営まれているようです。 比叡山は広く、私は幾度となく来ているので半日かけて回りましたが、本来は一日かけて回られることをお勧めします。少し坂道をあちこち歩かなければならないですが、親鸞聖人の旧跡を見つけたときには、砂漠でオアシスに出会えたような感覚でホッとします。体力があるうちに行かれることをお勧めします。


おすすめ情報

『時期』
春(桜)5月・秋(紅葉)10月下旬~11月下旬

『建築』
東塔 大乗院
西塔・聖光院跡 常行堂 法華堂(重要文化財)安土桃山時代
横川・横川中堂 恵心院

『祖師像』
大乗院 そばくいの木像

親鸞聖人ご修行の地 part 1/香華堂報100号[2009,05/01発行]

延暦寺 
【宗派】天台宗
【所在地】滋賀県大津市坂本本町4220

今回は比叡山延暦寺。その中でも目的地は3ヵ所。出家の後、最初に勉学されたとされる無動寺谷・大乗院。堂僧として修行された西塔・聖光院跡。妻の恵信尼の消息の一節にも出てくる主に勉学されたといわれる横川の中堂です。京都市内から車で1時間、比叡山ドライブウェイの料金所を通り、くねくねした道を上へ上へと登って行きます。標高848mの山ですが、琵琶湖も一望できて爽快です。ホテル前を通り次のゲートを通過し、根本中堂へ行く手前に弁天堂、明王堂とかかれた駐車場を右下へ降りて行きます。車を止めて根本中堂方面とは逆のケーブル延暦寺方面へ徒歩で行き最初の目的地無動寺谷・大乗院を目指します。片道20~30分の山道を下ると明王堂・不動寺前を通り『親鸞聖人御修行之地』の大乗院が見えてきます。ここのお堂は千日回峰をされている星野圓道師がご住職です。それゆえ、お堂前には『わらじ』が吊ってあります。 ここのお堂には親鸞聖人『そば喰いの木像』が安置されています。『そば喰いの木像』とは説明書きを要約すると『親鸞聖人が比叡山で修行されていた際、薬師如来の夢告により京の六角堂へ百夜の参詣を続けられたことがありました。これがいつとなく山僧の間に知れ渡り、よからぬ噂がたちはじめました。ある夜範宴(聖人の修行時代の名)が京へ下ったあとで、俄に蕎麦の振舞いをするとお師匠様から達しがあって沢山の若僧が集まってきました。彼等は例によって範宴のいないことを悪しざまに罵ろうとしたとき、お師匠様は大声で範宴の名を呼びました。ところが居ない筈の範宴が師の呼び声に応じてあらわれ蕎麦の振舞をうけました。以来、誰いうとはなく身代りの木像または、そば喰いの木像とあがめるようになりました。』駐車場まで戻るのが上り道で大変ですが、親鸞聖人はこの数倍の距離を毎日往復されていたのかと思うと自分自身が情けなくなりました。次号は西塔・横川についてお話します。

私のお寺めぐり/香華堂報98号[2009,03/01発行]

法界寺

【宗派】真言宗醍醐派
【所在地】京都市伏見区日野西大道町19

日野誕生院の手前、親鸞聖人がお生まれになり阿弥陀堂の阿弥陀様をお参りされていた法界寺も浄土真宗のご旧跡には外せず、感慨深いものがあります。私が訪ねた時は、職方や同業者10人程で平等院を先に行きそれから向かいました。法界寺の阿弥陀様は平等院と同じ丈六の大仏様です。平等院に比べるとお堂も仏像も質素な雰囲気がしますが、落ち着いておまいりできるので、ここの雰囲気も好きです。四隅の柱には彩色の跡や漆がめくれた跡が残っており、職方さんはライトを照らして興味津々で見入っていました。また、周りの壁面にも天人や飛天の彩色が残っており、ライトや双眼鏡を使えばより一層細かく見ることができます。私たちが訪問した時は住職直々に案内してくださって、お寺の由来などを説明してくださいましたが、職人の若い子たちが漆についてあれやこれやと話していると、逆に興味を示され、私たちに説明を求められることもあり、和やかな雰囲気になりました。 この阿弥陀堂は国宝です。宝形造りで二重屋根に見えますが、下屋根は裳階(もこし)と呼ばれる軒がついた形になっています。本堂である薬師堂の本尊薬師如来は『乳薬師』(ちちやくし)や『日野薬師』と呼ばれ健康な赤ちゃんが育つ母乳を授かるお寺として有名です。本堂には願掛けに『よだれかけ』が多数吊ってあります。また、1月14日には豊作や一年の無事を祈願し男衆が『頂礼(ちょうらい)』『頂礼』と声を上げながら裸をぶつけ合う『裸まつり』が行われ、粕汁が振舞われます。

おすすめ情報

『時期』
1月14日 裸まつり

『建築』
阿弥陀堂 鎌倉時代 国宝
薬師堂 室町時代 重要文化財

『仏像』
阿弥陀如来像 平安時代 国宝

私のお寺めぐり/香華堂報99号[2009,04/01発行]

青蓮院

【宗派】天台宗
【所在地】京都府京都市東山区粟田口三条坊町69-1

京都屈指の観光地、円山公園、知恩院を北に上がると、道を横切る大きな楠の木があります。そこを右に行くと青蓮院(しょうれんいん)です。親鸞聖人が得度の折、剃髪した髪の毛をまつる植髪堂(うえがみどう)は向かって左側のお堂です。お堂に入ると、正面に阿弥陀如来像がありますが、その後ろ側に見にくいですが、親鸞聖人が得度された9歳のお像があります。そのお像に遺髪を植えたことから、植髪堂の名がつきました。向かって右側は得度を授けた慈鎮和尚(じちんかしょう)のご絵像があり、向かって左側は親鸞聖人のご真影が掛かっています。向かって左余間には得度をされた時に使われたとされる『角盥(つのだらい)』があり、 親鸞聖人御得度用と書かれています。800年前のもの?と思いましたが・・・。本堂北側には遺髪を納めた遺髪塔があります。また、植髪堂の手前右にも楠の木があり、その前の石碑には『東本願寺ご法主 御手植』と書かれています。どうやら昭和14年の親鸞聖人得度750年を記念されて植樹されたようです。 いよいよ、青蓮院の入り口から拝観料を払って中に入ります。入ると、小御所の近くには、豊臣秀吉公が奉納したという『一文字手水鉢(ちょうずばち)』という細長い手水鉢があります。さすが戦国大名、剣を連想させる鋭い手水鉢です。順路に従って宸殿に進みます。この宸殿は阿弥陀如来様がご本尊で、お参りするところには『親鸞聖人得度の間』とかかれています。それから一旦、入り口まで戻ると、靴を履いて庭を散策します。お庭は広く、また竹やぶもあるので涼しげな感じがします。宸殿の前をとおり出口の手前、大玄関の前に日野誕生院と同じ親鸞聖人童形像と歌碑があります。これは昭和のはじめ、大阪の門徒さんの寄進によって建てられました。得度の際に馬をつないだとされる古松がこのあたりにあったので、その前に建てられたそうです。青蓮院の職員さんに聞くと、真宗の方のお参りが結構多いそうです。

おすすめ情報

『時期』
春・秋 夜間ライトアップ

『建築』
宸殿 親鸞聖人得度の間
植髪堂 親鸞聖人剃髪奉納のお堂

『旧跡』
一文字手水鉢 豊臣秀吉寄進

私のお寺めぐり/香華堂報97号[2009,02/01発行]

日野誕生院

【宗派】浄土真宗本願寺派
【所在地】京都市伏見区日野西大道町19

親鸞聖人ご生誕の地です。その言葉を聞くだけで、厳かな気分になります。場所は京都市内中心部より南東方向へ、車で約40分。真言宗醍醐派法界寺のとなりにあります。親鸞聖人は承安3(1173)年に誕生されました。幼名は『松若丸』。ひ孫の覚如上人が書かれた『御伝鈔』によると、『皇太后宮大新有範の子』とかかれていることから日野有範が父と推測されます。母については確かなことはわかっていませんが、伝説によると清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女(きっこうにょ)とされています。 西本願寺第20代広如上人が、文政11年(1828年)、法界寺境内に有範堂を建立され、第21代の明如上人が日野別堂と改称されたのが誕生院の起源です。現在の建物は、大正12年、立教開宗七百年を記念して堂舎の改築が計画され、昭和6年に完成したものです。父の五代前の日野資業が法界寺を建立したことから、親鸞聖人は法界寺で生まれ育ったとされています。しかしながら、父親を4歳で母親を8歳の時に亡くされています。さぞ、ご苦労されただろうと思われます。本堂は寄棟造りで境内は一般的な真宗寺院の様式ではなく、平安時代初期の建築様式を取り入れています。本堂手前の境内が回廊で囲まれ、中央には八角灯籠があります。内陣は中央の厨子に本尊阿弥陀如来を安置し、向かって右脇に父有範の木像を左には親鸞聖人幼小の御影が安置されています。 境内には青銅製の童形像や、得度された時のお言葉『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐のふかぬものかは』の歌碑もあって聖人を偲ぶことができます。 法界寺の近く、幼稚園となりには産湯の井戸やへその緒を納めた胞衣塚(えなづか)があります。また、法界寺の裏手には日野家の廟所もあります。毎年、西本願寺降誕会の5月21日の数日前に誕生会として法要が行われています。


おすすめ情報
『時期』
5月21日の数日前(2007年は5月19日) 親鸞聖人誕生会

『建築』
本堂(昭和6年建立)

『史跡』
産湯の井戸 
胞衣塚(えなづか)

私のお寺めぐり/香華堂報96号[2008,01/01発行]

清水寺

【宗派】北法相宗大本山
【所在地】京都市東山区清水1-294

京都屈指の観光地、今回は清水寺です。みなさんも修学旅行などでおなじみだと思います。子供の頃に、西大谷にお墓があったので、お参りを終えて清水寺へ向かったことがあります。モノトーンのお墓から、朱塗りのお堂がある清水寺は幼な心にすごくまぶしい印象がありました。お堂のお勧めはまずは随求堂(ずいぐどう)。『胎内めぐり』といって暗闇の中を歩くのですが、入り口の階段を下に降りて行くと、外の光を遮るように黒い布が垂れ下がっています。それをこえると日常にはありえない暗闇。数珠の手すりを握る手にも力が入ります。途中真っ暗闇でどうしようかと思いますが、前にも後ろにも人がいて、少しずつ前へ進むだけです。そのうちふぁーっと光った梵字で書かれた石の下に辿りつくとホットします。この石を触ると願い事が叶うそうです。そして、いよいよ『清水の舞台』で有名な本堂へ向かいます。ここは何回来ても眺めがよく気持ちがいいです。それから、釈迦堂、阿弥陀堂へ。奥の院から見ると『これぞ清水寺』という木組みの本堂の景色に出会えます。ここからの景色は写真ではよく見るのですが、実際に見るとまた格別です。それから、下に降りて行き、『清水』の寺名の由来となった音羽の滝へ。ながーい柄杓(ひしゃく)を使って水をくむのですが、長いため、自分で汲んで自分では飲めず、知り合い同士で飲ませ合いしている光景が微笑ましいです。 清水寺は日本漢字能力検定協会が1995年からいい字の語呂からにちなんで、12月12日に今年の漢字が森貫主の揮毫によって発表されることでも有名になりました。ちなみに2007年の今年の漢字は『偽』。日本人として恥ずかしいですね。京都駅からも近く、お土産屋さんもあり、風景で癒されるという三拍子揃ったお寺です。

おすすめ情報

『時期』
春季・夜の特別拝観(4月初旬)桜
秋季・夜の特別拝観 紅葉 

『建築』
本堂と舞台(江戸時代)国宝
釈迦堂(江戸時代)重文
阿弥陀堂(江戸時代)重文
奥の院(江戸時代)重文

『仏像』
十一面千手観音像(本堂) 
阿弥陀如来座像【丈六】(阿弥陀堂)