職人探訪【建具職人編】/香華堂報180号[2016,01/01発行]

香華堂報178号でご紹介した障子の取り付けができましたので、報告いたします。障子の取り付けには2日を要しました。まず障子の前に方立(ほうたて)という柱と障子の間に取り付ける細い棒を取り付けしていきます。こちらは合い釘という柱と方立ての中に釘を入れます。大谷派は余間の部分も障子なので、合計12本の方立を立てていきます。そして、いよいよ障子の取り付けです。当社は十数年前から狭い店内でするよりお寺の広い本堂の方が効率的なので外陣をお借りして作業をさせていただいています。障子はまず毛布を敷いた畳の上に設置する枚数の数だけ平たく並べていきます。そして障子と障子の間にボール紙を上下2枚ずつくらい挟んでいきます。そしてあらかじめ木地合わせの時に建具屋さんが杖(つえ)というお手製の物差しで、並べた障子の幅と設置する場所の寸法が同じかどうかを見ていきます。障子の幅が設置の場所より狭ければボール紙を増やしていきますし、広ければ減らしていきます。同じ寸法になったところで、裏側の黒い丁番から打っていきます。裏側は3枚の丁番を打ちます。そして仮吊りです。そして同じように反対側も打っていきます。開け閉めで自然に開いてきたり、閉じたりしないことを確認したら今度は表側の金具を打っていきます。表側の金色の金具は錺金具とよばれまずはコーナーの金具を打ち、そして真ん中、そしてコーナーと真ん中の間の金具を打ちます。この金具は少し上下の両端によった打ち方をします。これは京都の仏壇にもみられる様式ですが、中には等分に打たれることもあります。錺(かざり)金具で一番難しいところは中心の障子の出会い右側の持ち手がある部分を、職人さんの間では定規前というのですが、そこを削り閂(かんぬき)が左右に動くようにすることです。吊ってからもきちんとコの字型の閂鎹(かんぬきかすがい)にぶつからないようになっているかを確認します。ぶつかる場合はコの字金具などをずらします。

今回のお寺様は中尊・祖師・御代の三間分と両余間の三間分の計六間分ありましたので、作業日数に2日かかりました。しかしながら、ご覧になったお寺様から「うちの本堂ではないみたいに立派やわ~」といわれた時には疲れも和らぎやりがいを感じます。また軸回式の金具でしたので、簡単に外れる様子をお見せしたら驚いておられました。障子は本堂に入ったらまず目にする仏具でそのお寺様にとっては‘顔’となります。そのお顔に恥じないような仕事をしていきたいです。

私のお寺めぐり/香華堂報179号[2015,12/01発行]

根来寺 

 場所 和歌山県岩出市根来2286

今回は妻木先生の会で新義真言宗の本山である和歌山の根来寺などに行きましたので、そのお話をしたいと思います。真言宗には古義真言宗と新義真言宗があり、古義真言宗は高野山金剛峰寺、東寺などを本山とし、新義真言宗はここ根来寺をはじめとし、京都智積院、奈良長谷寺がこれにあたります。

 歴史を簡単にお話しますと高野山復興のため、根来寺の開祖である覚鑁(かくばん)上人が高野山に学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を建立します。しかしながら一部の人々との対立により高野山内での対立を立て直すため、解決策を示しますが混乱は収まらず、弟子の時代になってここ紀州の地に移った経緯がありあす。また根来寺は安土桃山時代には根来衆と呼ばれる僧兵が強大になり、豊臣秀吉の時代には大塔と大師堂以外は全山焼き払われましたが、紀州徳川家の庇護により再興され、同じ時期に覚鑁(かくばん)上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。

 さて時折見えるみかん畑を山手に見ながら山間部を抜けると、まず根来寺の大門が見え、その横を通り過ぎ駐車場へと向かいます。日曜日で紅葉の時期でしたので多くの参拝客がいますが、大きな駐車場なので、待つことなく駐車場に入ります。境内は多くは無料ですが、主要な重要文化財や国宝がある大師堂や大塔がある場所には拝観料が必要です。そこへ向かう階段は下から見ると壁のようにあるので、ご年配の方には少しきついかもしれません。階段を上ると受付があり拝観料を払い中に入ります。伽藍が3棟、目に飛び込んできますが、中でも真ん中にある国宝で安土桃山時代に建てられた日本一大きな木造大塔は圧巻の大きさです。妻木先生のお話をお聞きすると、大きさだけでなくその技術に驚かされます。内部には12本の丸柱が円形にたち、その内部に4本の四天柱があります。説明の中、本日は阿字観の修行中で僧侶の方が中から出てこられました。中に入るとその柱にそって敷居や長押が丸い形にきれいに沿ってはめこまれています。柱と柱の間の扉も円の形に合わせて湾曲しています。一緒に同行した仏具の木地師さんは「結構手間がいる仕事や」とつぶやいておりました。次に大伝法堂に向かいます。冒頭でお話したように安土桃山時代に秀吉によって焼かれたこのお堂は江戸時代に再建されています。中には三体の巨大な仏像が安置されています。大きな大塔や曲線の技術がいる仕事などいにしえの仕事を見ると、ますます日本人の建築のすごさを感じざるをえません。

職人探訪【建具職人編】/香華堂報178号[2015,11/01発行]

今回は仕事の精度が要求される建具職人さんのお話をしたいと思います。今回滋賀県の大谷派のお寺様での障子を木地合わせするまでの経緯をお話したいと思います。まずは寸法取りに本堂へ伺います。私自身がとることもあるのですが、今回は既存の本堂に設置しますので、柱や長押の傾きが※(業界内では傾きを‘こけ’と言います。)大きかったので、職人さんを連れて行きました。採寸は一昔前まではメジャーや下げ振りというアナログ的なものを使って計測していましたが、現在ではレーザー距離計やレーザー水平器などを使用するので、より早くより正確になりました。しかしながら同行する職人さんは慎重に計測されるので、非常に時間がかかりますが、今まで間違えられたことがありません。

そして次に計測した寸法を元に京都の工房で障子の製作です。製作には約一ヶ月を要します。そして障子の木地の状態ができると本堂にもっていき、仮合わせをします。これは冒頭でもお話したように本堂は長年屋根に瓦がのっていたり地震にあったりしているため、傾きが相当あるため木地の白木の状態で吊ってみます。漆を塗ってからは削ったりすることが不可能なためでもあります。

さて本堂で木地合わせをしていると、手触りがよく木目も美しいため、坊守様から「漆を塗らなくても木地の状態でもいいくらいね。」とお褒めの言葉をいただきました。今回の本堂は計26枚の障子がありましたので4人の職人さんが二日間にわたって本堂に出向き作業をしてくれました。仮合わせで難しいところはやはりそのひずみをどこで吸収するかです。障子自体は一枚ずつ同じ寸法にするため、寸法の調整は障子外側の細い棒(方立といいます)で行います。左右の‘こけ’はこれで解消しますが、前後は吊る位置を上下ずらさないと真っ直ぐに立ってくれません。これらを調整しスムーズに開閉できるようにするのが職人さんの腕の見せところです。障子の吊り方はひと昔前までは丁番式という錺金具に芯棒がついていて折り畳みするタイプ(仏壇の障子によく見られるタイプ)でしたが、現在は軸回式という障子の上下に金具をつけて、その回転で障子が開閉する方式に変わってきました。これは丁番式のように金具がへたり、障子が敷居や真ん中でぶつかることがないようにまた、大きな法要の場合でも簡単に障子が外せるようにするためです。時間は要しましたが、これで漆を塗っても安心して設置ができます。

特別寄稿 松花堂庭園から岩清水八幡宮】見学/香華堂報177号[2015,10/01発行]

所在地 松花堂庭園  京都府八幡市八幡女郎花43番地

    石清水八幡宮 京都府八幡市八幡高坊30番地

2011年から参加していた大阪工業大学の妻木先生が講師をされている学芸出版社の古建築見学会(全20回)もこの2014年の9月で最後を迎えました。最後は四つ切り箱のお弁当で有名な松花堂弁当を考案した松花堂昭乗の庭園とその昭乗が出家した石清水八幡宮へ行きました。明治維新までは神仏習合でしたので、神社である石清水八幡宮にも60近い坊(寺)があり、昭乗もその社僧となり修行に励んだようです。また昭乗は「書・画」「茶の湯」「和歌」に精通し、小堀遠州とも交流があり、大徳寺龍光院の茶室「密庵」の天袋の襖絵は昭乗作といわれている。ちなみにこの密庵は京都山崎妙喜庵の待庵、愛知県犬山市の如庵と並ぶ茶室の国宝でありますが、拝観できない茶室としても有名です。

庭園の入り口には松花堂の地を創始者が訪れたという吉兆のお店があります。庭園に足を踏み入れると、いろいろな種類の竹が植わっており、またそれにともない色々な種類の竹の生垣があり参考になります。庭園には元々石清水八幡宮の男山の中腹にあった松花堂を廃仏毀釈で明治の中ごろに移築された松花堂という茶室、同じ時期に移築した泉坊書院そしてその他に3つの茶室があり、それぞれに特徴があります。まずは梅隠、こちらは千利休の孫の宗旦好みの茶室を再現されたものです。その他にもありますが、茶室によっては茶会などで貸し出しもしていただけるようです。

石清水八幡宮へは松花堂庭園からバスで十分くらいの京阪八幡市駅からケーブルカーに乗って行きました。石清水八幡宮のある男山の山頂までは約3分。あっという間に到着です。降りて山道を10分ほど行くと、唐門に到着です。訪問日は日曜日でしたので、宮まいりで赤ちゃんを抱いた家族連れが数組おられました。唐門は唐破風で、屋根の垂木がその破風の曲線に沿って曲がっています。先生によると、この細工が難しいので、この唐門は貴重だとおっしゃっていました。そしていよいよ本殿です。といっても本殿は見えないのですが、外院と内院の二棟に別れているそうで、いわゆる八幡造りの形式をとっていう神社はここ石清水八幡宮と大分の八幡宮の総本宮である宇佐八幡宮の2ヶ所だけだそうです。帰りには京都市内を展望できる展望台に登り、京都タワーを挟み、表鬼門である比叡山がきれいに見えました。ここ石清水八幡宮が裏鬼門であるということがよくわかります。お寺のことに加えて茶室や神社のことやますます知識を広めていきたいと思います。

 

 

■石清水八幡宮は石と書いて「いわ」と呼びます。

職人探訪【金属打物職人編】/香華堂報176号[2015,09/01発行]

今回は金属加工の中でも真鍮や銅の板を菊灯や灯籠、輪灯などの仏具をされている職人さんをご紹介します。私がこの職人さんの元へ通いはじめた20年前には兄弟で仕事をされていました。しかしながら18年前にお兄さんが逝去されてからは一人で作業されています。一人で作業というのは非常に忍耐がいります。私も金具打ちや組み立てを一人でしていた時期もありますが、納期が迫っていたり難しい仕事に直面した時、間に合うのか、乗り越えられるのか相談したくても相手もいないですし、不安も募ります。しかしながらこちらの職人さんはそれを乗り越えられてきましたので、心より尊敬します。

さて、今回は菊灯を例にあげてご説明します。菊灯には一番下の台座の部分を「菊」、棒の部分を「竿」、上の筋が入った花の形をした部分を「朝顔」などいくつかの部分に分かれています。京都の職人さんが造る菊灯の一番の特徴は一番下の菊の部分が鋳物でできています。昔の菊灯やい安価な菊灯はその「菊」の部分が薄い真鍮の板でできていますので、何かがぶつかるとすぐにへこんでしまいます。また鋳物はそれ自体に重量があるので菊灯を立てた時に安定していますが、昔の菊灯には、おもりに砂が入っていることが多いのです。しかもそれを水に薄めてお磨きする液体の磨き液につけると、きれいに洗い流しても砂の中にその成分が残ってしまい、真鍮の金属を傷めてしまいます。何回か古い菊灯の修理を依頼されたことがありますが、この液を使われている場合は修理個所が多く、土台の菊の部分におもりとなるセメントを流しこんだりしなければならないので新品と変わらないくらいの金額になってしまうこともあります。

さて工程ですが菊の部分は鋳物で製作し磨き上げしていきます。竿の部分は断面が菊の形にして上下に無地の竿を蝋付加工していきます。この竿に真っ直ぐ付けるのが職人さんの見せどころで、まっすぐにつけないと竿に他の部品が入らないだけでなく、真っ直ぐに立たないからです。そして一番上の花が咲いたような朝顔の部分は菊の筋を入れていき、上部に五徳とコードの穴を開けて行きます。またこの職人さんが製作する菊灯には2種類ありますが、極上品に比べ最上品は菊の部分の(職人さんは菊を裏返した形状が植木鉢に似ていることから鉢という)鉢の肩の部分がより張り出していて、その上に菊座が付いているのが大きな特徴です。仕上げの磨き上げは外注の磨き専門の職人さんに出されます。 

安価なプレス製に比べ丈夫で長持する京都の職人さんが造った菊灯はやはり最高の京仏具の逸品です。後継者が現在のところいないのが今のところの懸念材料ですが、この技術を絶やしたくないものです。

祇園祭/香華堂報175号[2015,08/01発行]

引越先の中野之町が近所の岩戸山を有する岩戸山町の寄り町として1995年より復活したので、町内会の私も宵山にお手伝いにいきましたので、少し岩戸山のこととその体験談をお話したいと思います。元々岩戸山の寄り町と記録に残っているのは岩戸山町所蔵の祇園会式目並目録に「地の口米6斗 中野之町松原新町東入る」と載っているのと同時に中野之町町内定めにも寄贈したことから窺いしれることができます。いずれの記載も江戸時代の享保4年(1719)です。寄り町制度は明治5年(1872)に清々講社ができ、毎年補助金が交付されるようになって一旦廃止になりましたが、冒頭でお話したように1995年に復活しました。

私は宵山当日の夕方6時から10時までの当番でした。仕事を定時に切り上げ岩戸山に向かい「中野之町のものです。」と言うと粽売りをしているテントに入って「粽売りの椅子か朱印を押している椅子に座って」と言われます。事前に粽売りは若い女の子がするものだという認識があったので、朱印の椅子に座ります。朱印とは簡単にいうとスタンプラリーで朱印帳をもった方が各山鉾町を回り、朱印を押していくのですが、押すのに100円かかります。大抵は自分で押してもらうのですが、中には押してほしいといわれるので押すのですが、1枚の紙に3つのはんこを押さなければならず、一人の方を押すと次々に押してくれといわれ、蒸し暑い夜に汗だくとなりました。ゆえに行列が途切れるとご自分でおしてもらうように促しました。押しにくる方はご年輩の方が多いと思いきや、若い女性が多く、中には友達の分として2~3冊もっている人や海外の方がいらっしゃったことには驚きでした。後日聞いた話しでは「御朱印ガール」といわれる若い女性がパワースポットブームで神社仏閣を訪れることが影響し祇園祭でも多いのではないでしょうか。10時に粽売りなどは終了したのですが、朱印のところには10組ほどのお客様が並んだので、その方々が終るまでは居りました。役目を終え、帰ろうとすると11時頃に日和神楽(ひよりかぐら)という鉦を演奏して各寄り町を回われるので、お迎えしてといわれたので、家に帰り一休みしてからお迎えしました。ちなみにこの祇園祭の鉦を製作しているのは佐和理や勘三郎りんを製作している職人さんです。

今年は後祭りが私の生まれた昭和41年(1966)以来の復活やその後祭りに巡行する大船鉾が150年ぶりに復活し、祇園祭にとっても私にとっても思い出深い祭となりました。

職人探訪【仏師修理出張編】/香華堂報174号[2015,07/01発行]

仏像を製作される仏師さんのお仕事といえば新調はもちろんのことですが修理のお仕事も多いです。私はいつもお願いしている仏師さんが3名、その他に知己の仏師さんが3名ほどいらっしゃいます。なぜそんなに多くの仏師さんとおつきあいしているかと申しますと、お客様がご希望される仏師の種類や大きさによって仏師さんの得手不得手があり、お客様のご希望をお聞きすることによって依頼する仏師さんが変わってきます。よって私の仕事を横文字でいえば仏像コーディネーター、仏像ソムリエとでもいえばよいでしょうか。今回はその仏師さんの中でも修理を得意としお寺様に出張してその場で素晴らしいお仕事をされる仏師さんの仕事を紹介します。

今回ご依頼いただいたのは和歌山県の本願寺派のお寺様です。総高さ40cmくらいの小さな阿弥陀様ですが、当初台座から倒れそうなので、しっかりと台座に固定してほしいという依頼でした。ご住職が当店まで持参するとおっしゃっていたのですが、お預かりした場合、長くなると1ヶ月ほど本堂にご本尊がない状態になります。しかしながらせっかくお寺にお参りした方々が残念なお気持ちになると思い現地で修理することといたしました。お寺にお伺いしご本尊を拝見すると、ご本尊の足の裏のゲタが短いのと、手の指が折れていることがわかりました。ご本尊が小さいので、手の指も小さい上に、右手は印を結んでいらっしゃるので、本当に直るかと内心不安でした。仏師さんももっと大きな仏像を想定されていたようで、「小さなノミは持ってきていない」といい、どうしようかと思いましたが、「時間はかかるかもしれませんがやってみましょう」と言ってくれたので、まさしく阿弥陀様にお任せするような気持ちで仏師さんに託しました。お天気もよかったので、手元が明るい本堂の縁で作業をいたしました。大きめの木地を手に接着し、そこから薄く手の形に削り落としていきます。その作業の素晴らしさに感動されたのか初め住職だけご覧になっていたのですが、坊守様を庫裏から呼んでこられ、総代さんもお越しになり、実演販売のように職人さんの周りを取り囲みました。両手が仕上がると、古色を施し周りとほとんど違和感なく仕上げました。ご住職をはじめ、大変喜んでいただきました。ついでに上卓の脚が折れていたり前卓の脚がガタガタしたり、香炉の脚も外れていたりしていましたがすべて修理いたしましたので、ご住職から感激していただき、まさに仕事冥利につきます。仕事を終え、こういう優れた仏師さんや職人さんのご縁で仕事させていただくことを心から感謝申しあげるとともに、このような技術を後世に伝えていきたいなと思います。

 

特別寄稿【親鸞となむの大地―越後と佐渡の精神的風土―】見学/香華堂報173号[2015,06/01発行]

所在地 新潟県立歴史博物館 新潟県長岡市関原町1丁目 

新潟勝楽寺様の団参に同行し上越の親鸞聖人ご旧跡めぐりと新潟県長岡市で開催されている「親鸞となむの大地―越後と佐渡の精神的風土」を見学してきました。上越のご旧跡は居多ヶ浜・竹之内草庵・光源寺様の三ヶ所をおまいりさせていただきました。以前も訪問したことはあるのですが、特に光源寺様では、ご住職と勝楽寺様のご住職とは親戚関係にあるようで、大変丁寧に説明していただいた上、余間の中まで入らせていただき案内していただいたことは驚きでした。今回の説明で新たな発見がありました。光源寺様本堂正面には全国的にも珍しい【ご満悦の御影】がお厨子に掛けてあるのですが、その親鸞聖人の衣の色が白だと思っていたのが、実は浅葱色(水色)だったのです。これは流罪の時に着る色の衣だそうです。この衣を5年間着ていたそうです。改めてよくみると掛軸の親鸞聖人の衣の色も白ではなく、薄く水色をしています。説明していただいて初めて知りました。

お昼をはさみ、長岡に向かいました。いよいよ「親鸞となむの大地展です。この展覧会を記念して4月1日~4月25日の25泊26日かけて京都岡崎別院からこの博物館まで歩くイベントがあったそうです。博物館入口のガラスには大きくロゴが貼ってあります。展示内容で私の目に留まったのは龍谷大学蔵の恵信尼像の掛軸です。改めてお顔を拝見すると優しそうな人柄が窺えますが、自筆の文字を見ると、その力強い筆使いに芯の強い女性像を感じることができます。新潟は恵信尼公の出身地でもあることから、その存在を最も感じる土地柄だといつも思います。さて、私が気になったもう一つの展示物は井上円了氏の解説です。最近、大谷大学出身の先生を特集したこともあり気になっていた先生の一人です。新潟出身の学者だとは知らず注視しました。井上円了氏はご存知のように迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪博士』として有名です。最近いろいろなところで僧籍をもたない一般の方とお話すると迷信に惑わされている方が非常に多いことを感じざるをえません。100年ほどの前の方がその研究をされているというのは驚きで今の人々にとっても参考になるのではと考えています。恵信尼公のように懐が広く、井上円了氏のように冷静に物事を判断する、そのような新潟の人々によって京都に多大な影響を及ぼし、全国に広まったのだと再確認した展示会でした。

職人探訪【蒔絵師編】/香華堂報172号[2015,05/01発行]

蒔絵といえば、皆さん繊細で優美な世界を思いおこすのではないでしょうか。今回訪問する蒔絵師さんはその言葉を体現されている、本業の他に俳句や詩をたしなむ多彩な芸をおもちの職人さんです。京都迎賓館にも60点以上の作品を納品され名高い方です。私事ですが、この職人さんとは縁が深いです。祖父同士が蒔絵を習っていて、この職人さんは蒔絵の道に進み、お孫さんの代にでも活躍され私の方は商売の道に進んだということです。工房にはご主人の他に1人のベテランさんと6人の若い女性の職人さん計8人が働いていらっしゃいます。ご主人はお留守でしたので、ベテランの職人さんとお話しました。この方はこの道51年という方で急ぎの仕事や難しい仕事にも対応してくださっています。

さて、蒔絵といえば香合の蓋に描かれている宗派紋がよくご存知だと思いますが、そこで描かれている技法は大きく四つの技法があります。

蒔絵には写真②の右から順に1.漆で文様を描いて金を蒔いた平消し 2.漆で文様を盛上げてその上から金を蒔いた江戸高 3.漆で描いた文様に金粉を蒔き、その上に薄く漆で塗り固め、さらに漆で塗り固め木炭を使って研ぎ出して磨いていく『平磨き』4. 3番の技法を漆を盛上げてから進める漆上げ磨き、ここまでが通常、香合など仏具で使われる技法です。

よって、1番2番の技法は平らな部分か盛上げた部分に金を蒔くかの違いだけなので、文様の表面を手でこすると簡単に金がとれる恐れがあります。一方3番目4番目の技法は金粉で蒔いている上に漆を塗っていますので、表面が強固になり簡単には文様が剥がれ落ちないようになっています。3番目4番目の方が強固ですが、材料も時間もかかりますので高価になっていきます。しかしながら乾いたクロスなどで軽く拭いていただくことは可能ですのでお手入れはしやすいかもしれません。

また蒔絵に使用する材料は主に金が中心ですが、金以外にも銀や錫などの金属、蝶貝や鮑、夜光貝などの貝類を使用します。また卵の殻を細かくしたものを使用することもあるそうです。筆は漆を塗るには女性の髪の毛、特に海にもぐってサザエなどを取る海女さんの水分が含んだ髪の毛がいいそうです。細い筆の毛はねずみの脇毛や猫の毛が使われますが、近年取りづらく少なくなりつつあります。

最後になりますが③番目の写真の香合のようにいろんな色の漆で表現が可能で、文様も花や動物、楽器なども表現できますので、世界にひとつだけのオリジナル香合を考えられるのも楽しいかもしれません。

特別寄稿【当店の沿革】/香華堂報171号[2015,04/01発行]

所在地 京都市下京区松原通新町東入中野之町166

 

今回店舗を移転したのを機に当店及び私の自己紹介を改めてしたいと思います。元々成影という姓は兵庫県西南部に多い姓のようで、親戚が成影姓の多い『成影村』へ訪問したことがあると聞きました。数年前に寺院見学会で兵庫県たつの市に行った時に成影工務店という会社があってびっくりしたことを覚えています。そのご先祖が京都に移り住んで来たのは今では定かではないですが、親の話しによると、高祖父(曽祖父の父)の代は和菓子屋をしていたようです。母が家の中を整理していたら成影の名前が入った和菓子の箱がでてきたそうです。そして曽祖父である成影栄治郎が金箔押し職人をはじめたのが仏具業界に携わるきっかけとなりました。(明治30年頃)そして祖父の代に成影仏具店を起こし(昭和30年頃)、昭和36年頃東本願寺本山の御用達である福井弥右衛門商店を襲名し商号を福井屋仏具店成影製作所としたのが昭和36年親鸞聖人700回御遠忌の年です。七条烏丸の南西角、現在のローソンがある場所にお店はありました。その頃のご遠忌はおまいりが多くお客様もたくさんいらっしゃったので売上げを一斗缶にお札を入れていたそうです。またその頃は衣服といえば、着物が主流でしたので、 帯に財布を巻きつけていらっしゃった方が多く、奥の間をお貸しし着物を解いて財布を出される方もいたようです。その後カタログ販売で本山・別院を始め全国のご寺院に仏具をお納めし当店が隆盛を極めた時期でありました。しかしその後、幾多の波乱な時期もありましたが、母が昭和62年に社名を香華堂に変更し小さいながらも経営しておりました。私はその頃大谷大学の学生でその頃仏壇の納品などでよく手伝っておりました。私は大学卒業後大手仏壇店に3年間就職しその後家業を継ぐべく帰ってきましたが、営業ばかりしていた前職に比べ寺院仏具の種類の多さや職人さんとのやりとりで当初は戸惑うことが多かったです。またなかなか売上げも伸びず、低迷しておりましたが、打開すべく2006年楽天に出店いたしました。出店したことにより一般のお客さまに数珠やお線香・ローソク、学校や役所などの官公庁や各企業様に屏風や演台など新たな顧客を創造することができました。平成20年には代表にも就任しましたが2014年3月新店舗をオープンしたことは私の悲願でありました。まだ引越ししたばかりで回りの工事もやり残しが多くお客様をお迎えする状態ではないですが、またお近くに来られたらおよりください。