私のお寺めぐり/香華堂報234号[2020,12/01発行]

竹生島 宝厳寺 真言宗豊山派 滋賀県長浜市早崎町1664−1


盆地育ちの私は山の景色より海や湖の景色を見ると心が癒されて休んだ気持ちになります。近場でいいところはないかと考えていたら9月の休日に水の景色を求めて竹生島 宝厳寺へ行って来ました。  

竹生島へは長浜港からと今津港から船が出ていますが、今津にはお得意様のお寺様があり出港場所とも近く馴染み深かったので今津港から船に乗りました。

この日はお天気もよく多くの人が来られていました。20分くらいしていよいよ桟橋から乗り込みました。船は新しく快適で、船内では竹生島の案内ビデオが流れて予備知識を頭に入れられます。

遠い昔に来た覚えはあるのですが、段々と島に近づくとまったく覚えてないことが分かり初訪問のように新鮮でした。船から降りると宝厳寺に向かう参道には数軒の飲食店やお土産店がありますが、団体で食事できるところはなさそうでした。

宝厳寺の入口で入場料を払い、すぐ目の前にある急な階段を上って行きます。段数が予想以上にあるので日頃の運動不足のせいか息が上がりました。調べて見ると165段あるそうです。

 上まで上りきると左手に本堂が見えてきます。その前を横切るように多くの人が並んでいました、先頭を見るとご朱印をもらうために並ばれているようでした。本堂でお参りしてまず圧巻だったのは大きな灯籠です。また二羽の鳳凰の欄間が3枚飾られています。

 本堂を出て上がってきた方に戻り今度はさらに階段を上り三重塔に向かいます。三重塔は江戸時代初期に焼失したそうですが、約350年ぶりの平成12(2000)年に復元、新築されたそうです。その後は令和2(2020)年春に修復が完了した国宝の唐門に向かいました。2020年春に完成したばからなので、漆塗も彩色もきれいに仕上がっていました。 そして舟廊下を通り、都久夫須麻(つくぶすま)神社にお参りしました。その後はメインイベントの龍神拝所での「かわらけ」投げです。「かわらけ」投げは京都 高雄の神護寺が有名ですが、それ以来かもしれません。神社・仏閣では願いをかなえる仏事ですが、子供が喜ぶのでもちろん投げました。売店で3枚1組を買って自分の名前を書いて湖の方にある鳥居に向かって投げます。

 売店の人によると鳥居の両脚の間をくぐると龍神様により願いがかなうと言われているそうです。

 今津港へ戻る船では船上のデッキに上がりました。青空でしたのでたいへん気持ちよかったです。

 平日は1時間ほどで行けますが、土日は2時間以上かかりますのでご注意ください。京都から気軽に行ける場所ですが、船で行けるので小旅行気分でいいですね。

ご旧跡めぐり/香華堂報233号[2020,10/01発行]

聖徳太子御廟所・磯長山(しながさん) 叡福寺 真言宗単立

 大阪府南河内郡太子町太子2146

2011年にお浄土に往生された大谷大学名誉教授である堅田修先生とは自坊の滋賀県高島市の慈敬寺様で仏具の納品でお世話になっただけではなく、親鸞聖人に関わる様々な話をさせていただきました。その一つは真宗寺院以外のお寺になぜ親鸞聖人のお木像があるのかとか真宗寺院ではなぜ余間に聖徳太子の掛軸が掛けられるかとかの話もいたしました。

その話を元に訪ねたお寺様も大津 三井寺様や京都 東山の法住寺様など多数あります。その中で「大阪の叡福寺は聖徳太子のお墓があるお寺だから必ずおまいりしなさいよ」と言われていたのになかなか行く機会がありませんでした。コロナ禍で自粛ムードの漂う中、ふと先生の言葉を思い出し大阪南部に位置する叡福寺に行ってきました。

京都から車で1時間ほどで到着しました。インターを降り10分程で叡福寺に着き山門前に車を止めます。山門は駐車場から階段を上った上にあり山門両側には金剛力士像が安置されています。山門入って左手に金堂があります。大きさは桁行5間梁間4間の入母屋造、本瓦葺の堂々たる建物です。御本尊は高さ90cmの如意輪観音座像で、これは聖徳太子の本地(化身)が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいて安置されているそうです。 脇侍は不動明王と愛染明王です。また本堂手前の西側には法塔が建っています。本堂の東側の奥へ進むと聖徳太子御廟があります。こちらは宮内庁の管轄なので遠目からおまいりしました。

境内には「浄土堂」や「弘法大師堂」がありますが、特に注目したのは「見真大師堂」です。明治45年(1912年)建立されて本尊は親鸞聖人座像です。 聖人が88歳の時に叡福寺参拝された折に、自らこの像を刻んで遺されたといいます。お堂は戸閉りされてガラス越にしか見えませんでしたが、はっきりとお姿を確認することはできました。この見真堂は長年傷みが進んでいましたが、屋根が葺き替えられ2019年の大乗会法要(聖徳太子のご命日)の際に修復法要が行われました。

長年の堅田先生との約束が果たせてホットしています。こちらの叡福寺は上の太子と呼ばれ下の太子(大聖勝軍寺)、中の太子(野中寺)とともに、太子信仰の霊場として栄え、また聖徳太子建立七大寺(法隆寺 広隆寺 法起寺 四天王寺 中宮寺 橘寺 葛木寺)もあるので未訪問のところは、また機会がありましたらお参りしたいと思っています。令和3(2021)年は聖徳太子が薨去されてから1400年目にあたり、4月10日~5月11日には御遠忌大法会が行われます。4月17日(土)には大谷派、21日(水)には本願寺派がお参りされるようです。ご縁がありましたらおまいりしたいものです。

私のお寺めぐり/香華堂報232号[2020,08/01発行]

一休寺 臨済宗大徳寺派  京都府京田辺市薪里ノ内102

1月下旬に京田辺の一休寺で善哉を頂けるという情報を知ったので早速に行ってきました。この一休善哉は一休禅師の誕生日が1月1日であることから1月の最終日曜日に毎年振舞われています。一休寺には車で京都市内から約40分で到着します。駐車場に車を止めて総門をくぐり右に折れると、宮内庁管轄の一休禅師のお墓を通り方丈へ向かいます。隣の建物である庫裏に案内され絵馬に誓いのメッセージを書くと、方丈の堂内に案内され椅子に腰かけます。しばらくすると僧侶の方が数人入って来られ、お経を上げられ、先ほどの絵馬も個別に読み上げられました。

それからは境内を散策します。トンチで有名な一休さん、そのトンチがいくつか実際に再現されていました。橋の手前には立札が立っており、「このはしわたるべからず」と書いてありました。また先ほどの庫裡にも虎退治の逸話の衝立がありました。それから先ほど方丈でおまいりしていただいた絵馬を総門横の絵馬掛に吊るしに行きました。さて、いよいよお楽しみの善哉です。大きめのお餅が入った善哉と一休寺納豆、先に一休寺納豆を含んで善哉を食べると辛さと甘さが入り交じっておいしくいただけました。

また一休禅師は室町時代を生きた方ですが、蓮如上人とも親交があったそうです。一休禅師は1394年生れ蓮如上人は1415年生れで21才差ですが、親鸞聖人200回忌法要も訪れたそうです。その時一休さんが68才、蓮如上人47才で、その時に詠んだ句が次になります。「襟まきの あたたかそうな黒坊主 こいつが法は 天下一なり」親鸞聖人に対して、なんと荒っぽい句でしょう。しかしながら親鸞聖人に対して尊敬の念も感じることができます。

また自分も親からよく聞いた言葉ですが、逸話として一休さんがとある人に、孫ができたお祝いに何か目出度い言葉をと言われて、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と書きました。お願いした人は、カンカンに怒って、「死ぬとはどうゆうことだ」と一休禅師を問いただします。すると一休さんは「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。これほどおめでたいことがあろうか、これが逆になったらどうする」と、諭されたそうです。自分が子供を持ち親の立場になるとこの言葉ほどめでたいことはないと実感します。色々な格言を残された一休さん。その由緒ある一休寺にも一度は足を運ばれることをお勧めします。

特別編集/香華堂報231号[2020,06/01発行]

興福寺中金堂(ちゅうこんどう)新築 法相宗 奈良県奈良市登大路町48番地

2019年11月にしばらくぶりの正倉院展を見学しに奈良に行きました。正倉院展の時期は混雑回避のために奈良国立博物館から離れた場所に車を止めてシャトルバスで会場へ向かいます。正倉院展では素晴らしい宝物の数々に目を奪われましたが、特に仏前への供物(くもつ)をのせる献物器(けんもつき)である粉地彩絵八角几(ふんじさいえのはっかくき)には1300年前にもかかわらず、その格狭間の刳りぬき方の鋭さ、デザイン、そして繧繝彩色の素晴らしさが今でも目に焼き付いています。正倉院展のホームページでも見ることができますので、ご興味ある方は是非、ご覧ください。

正倉院展は日程の後半でしたので、そんなに混まずスムーズに見学できました。それから奈良公園を通って興福寺へ向かいました。奈良公園には多くの鹿がいますので、息子も初めて野放しにされている鹿には興味津々のようでした。

 ようやく興福寺五重塔が見え、その向こうに平成30(2018)年10月に落慶された中金堂が見えてきました。この日はたいへん天気がよく屋根の鴟尾(しび)が青空にたいそう映えていました。

 中金堂は本尊が釈迦如来坐像、単層裳階(もこし)付き寄棟造で桁行9間梁行6間の創建当初の規模で新築されました。大きさは幅約40メートル奥行約20メートル高さ約20メートルです。内部には本尊の他に2体の菩薩像と吉祥天像、大黒天像そして四隅には四天王像が安置されています。また中金堂を支える66本の太い柱は国内では調達できず、薬師寺金堂や西塔の時のような台湾ヒノキでもなく、今回はアフリカ産ケヤキがカメルーンから8年がかりで持ち込まれて使用されました。長さ約10メートルで直径約80センチの柱が36本、さらに長さ約5メートルで直径約60センチの柱が30本使用されています。柱以外の木材はカナダ産のヒノキです。

柱直下の地中には66個の礎石が整然と並んでいます。発掘調査では、そのうち64個が天平時代のものだと判明したそうです。

落慶法要は平成30年10月7日から11日まで5日間の日程で参列者14,000人だったそうです。その法要で多川俊映貫首〈たがわしゅんえいかんす〉が「創建以来1300年このかた7度の焼失を経て8度目の再建でございます。文字通り七転び八起きでございます」と挨拶されていた言葉が印象的でした。その不屈の精神に頭が下がると同時にその歴史的背景を心に持ちながら中金堂をお参りすると感慨深いものがあります。

別院めぐり/香華堂報230号[2020,04/01発行]

和田堀廟所(浄土真宗本願寺派)  東京都杉並区永福 1-8-1

 

今回は築地本願寺の分院である和田堀廟所にお参りに行ってきました。場所は東京都心の少し西に位置しています。和田堀廟所の成り立ちは未曾有の災害をもたらした関東大震災の時に遡ります。この震災で築地本願寺も類焼する被害を受けてしまい、墓地・石碑を移転する計画が持ち上がります。その当時、この地にあった陸軍火薬庫の土地1万1千坪の払下げの話があり、明治大学とともに土地の使用許可を願い、この辺りの町名である和田堀町の地名から「和田堀廟所」と名付けられ誕生しました。墓地だけの面積だけで約7400坪(24,500㎡)

を有し、都内屈指の墓地です。

この時は、東京の仕事を終えて西の方面に車を走らせていた際に偶然にも「和田堀廟所」の看板を見つけて引き返しました。甲州街道という大きな国道20号線に面した建物の手前の駐車場に車を止め、逆U字の大きな建物の間を歩いていきます。法事やお葬式もできるようで、僧侶や喪服を着た方が行き来されていました。その奥の正面には本堂が見えてきます。本堂は第2次世界大戦の戦火に遭い、それまでの木造から建て直しされたようで、築地本願寺を模したインド仏教様式の鉄筋造です。中に入ると、参詣席は椅子式になっており、外陣は畳が敷いてあります。案内によると御本尊と祖師御影だけは戦火から逃れたようです。本堂の裏手から左手にかけて広大な墓地が広がります。都心でこの広さはすごいですね。

境内には本願寺第21代門主明如上人の次女であり、京都女子学園の設立に尽力した九条武子様の墓地や女流作家の樋口一葉や俳人である中村汀女の墓地もあります。自分は墓地の中まで入りませんでしたが、事務所のすぐ脇にカルピスの顕彰碑があったりカステラ文明堂の東京進出に尽力した宮崎甚佐衛門の句碑が建碑されていたり興味深いものが多くあります。その句碑には草書で、「手を洗いましょう、口濯ぎ(ゆすぎ)心を清めて参りましょう 聞きましょう 帰りましょう 弥陀の浄土に 南無阿弥陀仏」と刻まれています。これからのお墓まいりの心得として覚えておきたい言葉です。墓地なので、団参ではオススメしませんが、東京に行かれたら、その広大な敷地を見学し知見を広げるにはいいかもしれません。

別院めぐり/香華堂報229号[2020,02/01発行]

豊橋別院(真宗大谷派)  愛知県豊橋市花園町8

今回は真宗大谷派岡崎教区内にある四つの別院の中で愛知県内では一番東側に位置する豊橋別院にお参りしてきました。この別院には役寺というお寺様が回りに5ヶ寺ありますが、その一つのお寺様に仕事で行く機会があり、仕事の後に夕刻に撮影したので少し暗いかもしれませんので、ご了承ください。東名高速音羽蒲郡インター下りて市内に向かうと豊川の橋あたりで左手奥に吉田城(鉄櫓)が見え、渡ったところに豊橋市市役所が見えてきます。偶然聞いていた地元のラジオ放送では2020年4月から始まるNHK連続テレビ小説「エール」がこの豊橋が舞台になることが話題となっていました。豊橋別院はその橋あたりから5分程のところにあります。本堂は鉄筋で近代的な雰囲気です。

豊橋別院の歴史を振り返ると、前身吉田御坊誓念寺の創立は、寛永21(1644)年高須久太夫(法名空正)寄進による梵鐘の銘文に、「誓念寺は本願寺附属の道場である旨を宣如上人が誌す」ことに由来します。江戸時代には境内がかなり狭小であったようですが藩主の奨励もあり、安政期には募財や材料も整い着工寸前までいったようですが、安政5(1858)年京都の本山の両堂が類焼してしまったため、急遽普請中の用材をすべて本山へ寄進することになり、阿弥陀堂に用材として用いられたようです。その後、本堂が暫時造営されましたが、残念なことに明治4(1871)年に出火し、境内の多くを焼失してしまいました。廃仏毀釈が叫ばれる中、ようやく明治12年「豊橋別院」が認められ、同時に厳如上人からの消息も発せられました。

昭和になると、豊橋別院は昭和20(1945)年6月19日の空襲により、またもや甚大な被害を受けました。焼土の中からの復興は困難をきわめましたが、同23(1948)年には仮本堂の上棟、花園幼稚園の開設、同25年の仮本堂落慶、翌々年には供出を免れた御坊開創以来の梵鐘を懸けた鐘楼堂が再建されたそうです。

そして戦後40年を経て、昭和60(1985)年本堂も新築再建され、平成27(2015)年4月には親鸞聖人750回御遠忌法要が勤修されました。多くの困難を乗り越えてこられた豊橋別院、その足跡をたどると不屈の精神に頭が下がります。

今年4月から始まるNHK連続テレビ小説は巨人軍の応援歌「闘魂こめて」と阪神の応援歌「六甲おろし」両方を作曲した作曲家、古関裕而(ゆうじ)の出身地福島市とその妻、古関金子(きんこ)の出身地豊橋市が東京オリンピックに合わせて放映されるよう共に誘致活動されたそうです。この番組が日本選手団の皆さんの「エール」になればいいですね。

ご旧跡めぐり/香華堂報228号[2019,12/01発行]

車の道場(上野別堂)(真宗誠照寺派)  福井県鯖江市日の出町7-1

福井方面に向かって出張で走っている時にたまたま「親鸞聖人御旧跡 車の道場」の看板を見かけたので、訪問しました。少し山手に向かい車を走らせました。坂道に車を止め、さらに山手の本堂に向かいます。乗用車数台でしたら止めるスペースがありますが、大型バスは止められないのでご注意してください。普段は無住のようですが、きれいに整備されています。本堂向かって左手に書院があります。

石碑などによると、車の道場は福井県鯖江の本山誠照寺派別院で上野別堂と呼ばれています。

調べたところによると「親鸞聖人が流罪になって越後に向かう際に浜辺を歩いていらっしゃった時に、この地の豪族の波多野氏が呼び止めて法話を聞いて深く帰依されたそうです。親鸞聖人は最初板敷に乗っていましたが、この道場を出られる時は車を付けられて出られたので車の道場と呼ばれるようになった」ということです。故にこの地は「北陸路」の真宗初転法輪(最初の説法を行うこと)の地と呼ばれています。またこの道場が発展し誠照寺派本山誠照寺の元になった場所でもあります。この時は本堂内をおまいりすることはできませんでしたが、誠照寺のホームページによると御本尊は座像で慈覚大師直作の阿弥陀如来と呼ばれ、「親鸞聖人御形見の背負いの木像」と称されているそうです。

また本堂は昭和58年に京都大学工学博士の天沼俊一氏によって設計、復興されました。総桧48本が使用され室町時代を模した寝殿造です。前庭にある古井戸を当時のままだそうです。

誠照寺では2011年5月に親鸞聖人750回忌法要が勤修され、ご法主によって灯された法灯から一般の方々の提灯に分配され、500m離れた本山の御影堂に歩かれ提灯行列をされました。安全のため昼に行われたようですが、趣があっていいですね。

本堂の形が写真で改めて見てもきれいなので、福井県の真宗四箇本山参拝には是非ともご参拝に行ってみてください。

ご旧跡めぐり/香華堂報227号[2019,10/01発行]

白川村 明善寺様(真宗大谷派)  岐阜県大野郡白川村荻町679

荘川桜公園  岐阜県高山市荘川町中野769-15

嘉念坊善俊上人道場跡及び墓石  岐阜県大野郡白川村鳩谷

 

前号の荘川桜から本来の目的である客様に向かいました。仕事の話を終え、嘉念坊善俊上人などについてお話をお聞きすると白川郷の近くにお墓があることが分かりました。そして、教えていただいた場所に車を向かわせましたが、途中、世界遺産になった白川郷が見えてきましたので、これは是非行かなければと思い向かいました。白川郷は世界遺産になった影響でしょうか、外国人を含め大勢の観光客が平日にも関わらず来られていました。

駐車場に車を止め、日も暮れてきましたので、地図を頼りにお寺様があったのを思い出し目的地に向かってダッシュしました。そのお寺様は真宗大谷派のお寺様で明善寺様といいます。まず目に飛び込んでくるのが特徴的な茅葺の鐘楼兼山門です。その手前に田んぼが広がっているので鐘楼兼山門や本堂もロケーションがよく、遠くからも見ることができます。庫裡が郷土記念館になっていて入館料300円を入口で支払い階段を上がり2階3階と見学しました。2階は様々な民具が置いてあり、3階は茅葺の裏側が見えてどのように茅葺が屋根に括られているか見ることができるので興味深いです。

次に1階まで下りて別棟の本堂に向かいお参りします。本堂はきれいに修復されていて本堂の正面には羅網が吊るされ両余間には蓮水の彩色が描かれています。外陣の壁の回りには浜田泰介画伯による親鸞聖人像や富士山の絵画が飾られています。さて入口に戻ると囲炉裏のある部屋があります。そこでお茶をいただき、受付の方に嘉念坊善俊上人のことをお聞きしたら、「住職を呼んできます」と言って直接お話しすることとなりました。改めて嘉念坊善俊上人道場のある場所などを詳しくお聞きすることができました。また、よくよくお話しているとご住職も大谷大学出身で自分と同じ寺川ゼミ出身ということで話がはずみました。駐車場に戻り目的地近くの鳩谷郵便局をナビにセットして向かいました。嘉念坊善俊上人の道場は小さな庵ですが茅葺の屋根が‘いにしえ’の雰囲気を醸し出していました。墓石はその道場向かって左手にあります。現在、お墓は高山市の照蓮寺様に移動されているので、こちらは旧墓地・火葬跡となりますが石碑はありました。

冬の時季に、合掌造りの屋根に雪が積もった姿を見に訪れたいものです。色々な出会いがあり、白川の方たちの温かい心にふれて取材することができ感謝いたします。

ご旧跡めぐり/香華堂報226号[2019,08/01発行]

白川村 明善寺様(真宗大谷派)  岐阜県大野郡白川村荻町679

荘川桜公園  岐阜県高山市荘川町中野769-15

嘉念坊善俊上人道場跡及び墓地  岐阜県大野郡白川村鳩谷

 

前々回の香華堂報で高山の照蓮寺様のご紹介いたしましたが、元々、白川村近くの御母衣(みぼろ)ダムにあったことを知り、タイミングよく近くのお寺様に行く機会がありましたので、ゆかりのある荘川桜公園、白川郷の明善寺様そして高山別院を創立した嘉念坊善俊上人の道場及びお墓などを訪問してきました。まずは、荘川桜公園に行きました。この公園には大きな桜の木が2本あり、1本は照蓮寺様、もう1本は光輪寺様の境内にあったものでダムの水没予定地にあったものを移植されました。高さは30mあるそうで桜の木の下に行くと大きな森の中にいるような感覚でした。なぜこの地に桜が移植されたかと申しますと、御母衣ダム建設で移転を余儀なくされた照蓮寺様光輪寺様の本堂が3ヶ月余りで解体、移転され、桜の木も2日後には伐採されることになっていたそうです。そこへ電源開発公社初代総裁の高碕達之助氏が光輪寺様の桜を目にした時に「この桜を救いたいという気持ちが胸の奥から湧き上がってくるのを抑えられなかった」ということから照蓮寺様の桜も含めて移植されることになったのです。移植は1960(昭和35)年11月15日から一ヶ月あまりをかけて行われました。まず大木の桜の移植は前例のないたいへんものでしたが、「桜博士」と呼ばれた笹部新太郎氏や当時日本一といわれた植木職人である丹羽政光氏の協力を得ながら必要最低限を残して枝も根も切り落とし、ブルドーザ3台を使い、50mの高低差と600mの移動距離を引きずり上げました。400年を超える老木にとってはたいへんな痛手で、次の年に桜が咲くか心配されました。しかし、白川村の遅い春に見事に活着し花を咲かせました。この公園には照蓮寺様を開基した嘉念坊善俊上人の銅像があり桜の木を常に眺めていらっしゃいます。桜の見ごろは2019年で4月末から5月初めにかけてです。現在、照蓮寺様は高山市に光輪寺様は関市に移転されています。このお話は一回で終わる予定でしたが、桜にまつわる話を知り自らも感動しましたので次回に白川郷のお寺様や嘉念坊善俊上人のお墓におまいりしたことをお伝えします。

特別編集/香華堂報225号[2019,06/01発行]

薬師寺東塔修理現場見学(法相宗大本山)

奈良県奈良市西ノ京町457

 奈良の南都7大寺の一つに数えられる薬師寺東塔の修復事業が完成し一般に見学できる最後のチャンスが平成から令和にかけてのゴールデンウィークにありましたので行ってきました。東塔は薬師寺の伽藍の中で唯一、天災人災から逃れ創建当初(約1300年前)から現存していますが風蝕やひび割れ、彩色の剥落が激しく修復することに至ったようです。

 東塔の修復は平成21(2009)年から解体修理が行われておりましたが、なかなか見学する機会がなく、今日に至りました。

 開門時間は8時半でしたが、最寄り駅の西ノ京駅に着いたのが9時半くらい、もうすでに東塔前では整理券が配られていて、自分の番号が呼ばれるまでに時間を要しましたので、先に西塔や金堂、講堂などを見学しました。特に興味深かったのは金堂での僧侶の方のお説教でした。自己紹介では、高田好胤先生の最後の弟子で30代半ばとおっしゃっていましたが、説教が軽快で関西らしく本音も交えた法話は、満杯になった金堂を‘笑いの渦’に包むほど盛り上がっていました。そして法話の中で写経用紙の購入を勧めていらっしゃいましたが、思わず自分も乗せられて買ってしまいました。

 さて、自分の順番が来たので、東塔に向かいました。まずはヘルメットをかぶり修復現場の中に入って行きます。現在、素屋根に覆われている東塔回りの木製足場を上っていきます。間近で見られる東塔に気持ちも高ぶってきます。そして最上部の屋根が目の前で見られる場所まで来ました。目の前で見られる機会が、これが最初で最後と思うとシャッターをきり続けました。しばらくするともう一段上に上れることが分かり上に向かうとそこは相輪がよく見える本当の最上階の場所でした。傍らには僧侶の方が東塔について説明されています。お話の中で興味深かったのは相輪の高さです。相輪自体の高さは10m(東塔全体では34.1m)あるそうですが、その中の水煙部分だけでも190cmもあるそうです。下から見てもそんな高さがあるとは思えませんでした。ちなみに今回の修復で相輪部分は新調されたそうです、新調されたのは富山県高岡市の伝統工芸高岡銅器振興協同組合で15社の会社が携わったそうです。ちなみに西塔の相輪は滋賀県の金壽堂さんが昭和55(1980)年に製作されました。

 落慶法要は令和2(2020)年、4月21日(水)~26日(日)、落慶慶讃法要は令和2(2020)年、5月1日(金)~10日(日)までだそうです。素屋根を外して青空に聳えるきれいに修復された東塔もぜひ見たいものです。