職人探訪【彫刻師編】/香華堂報158号[2014,03/01発行]

前回仏具の木地の職人さんの話しをいたしましたが、次は彫刻をほる彫刻師のお話しです。仏具の彫刻といえば、花鳥を中心とします。よってとある彫刻師は植物園や動物園にでかけて、絶えず観察したりスケッチしているとのことでした。彫刻に用いられる花は牡丹、菊、松竹梅など、鳥は実在の水鳥、孔雀、鶴から架空の浄土に住んでいるといわれている鳳凰、龍、麒麟などがあります。また動物もあります。獅子、虎、象やリスも使用されることもあります。どこに彫刻が使われているかといいますと、お西では宮殿の最高級品には脇袖にブドウにリスがあり正面には鶴が用いられ、須弥壇には唐獅子牡丹を用います。また中尊前々前卓には六鳥といって、白鵠(びゃっこう)・孔雀・鸚鵡(おうむ)・舎利(しゃり)・迦稜頻伽(かりょうびんが)・共命之鳥(ぐみょうしちょう)の阿弥陀経にでてくる鳥が組込まれています。彫刻を代表する机なので、じっくりご覧になる機会があると面白いですね。またその前卓の袖彫りには龍の彫刻が左右から睨みをきかしています。一方大谷派の宮殿は正面上に鶴の彫刻、他は袖の上には牡丹の彫刻があります。また中尊前々卓は阿弥陀堂型には四季の草花といって、牡丹、蓮、菊、梅が四ヶ所にはめ込まれ、両端には麒麟が向い合わせで向いあっています。また御影堂前卓には菊水彫刻となります。

ところで、欄間の彫刻はご本山御影堂ではお西は牡丹、お東は天人の彫刻になっていますが、一般のお寺様は人の形をした彫刻多いのをご存知でしょうか。当社でも数ヶ寺で修復させていただいたことがあります。調べたところ、中国の昔話で親孝行のお話を綴った二十四孝から用いられたということがわかりました。それが後の日本にとって、お伽草子に用いられ、欄間の彫刻の題材になったのではないかと思います。参考に欄間の写真は唐夫人といい、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝髪をといてあげていました。そしてその姑さんが死ぬ間際に、「唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言いました。このように姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたというお話しです。

 彫刻がすべて教義に結びつくわけではないですが、親孝行など、お説教にも取り入れられる題材が多いのはいにしえの人の思いが現在の私にも伝わっていて興味深いです。

職人探訪【木地師編】/香華堂報157号[2014,02/01発行]

仏具の最初の工程といえばまず木地です。その木地の職人さんのことを木地師と呼びます。その木地師も大きく分けて御本尊や高僧像を安置する宮殿や厨子、そしてそれらを支える須弥壇などを製作される宮殿師(くうでんし)。また机師と呼ばれ宮殿や厨子の前に置いて、五具足などを置く机を作る机師。そして障子や欄間など本堂の大きさに合わせて、ピッタリはまるように製作する建具師さんなどがいます。欄間の中の牡丹や天人さんなどを彫る人は木地師と呼ばず彫刻師といいます。

その木地の職人さんたちも時代はかわり、一昔前までは伝統的な形さえ作ればよかったのですが、現在は伝統的なものがあまり売れなくなり新様式のものや特注のものを多く作られるようになりました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、木地師は伝統的な仏具をつくる際には設計図がなく『つえ』と呼ばれる印がしてある長い1本の棒で仏具を製作されます。その一本だけで大きな屋根の宮殿などを製作されるので見事です。一方最近の新様式の仏具は図面を書いて細かく寸法まで入ったものを元に製作されていきます。

京都の仏具がなぜ全国的にブランドとして定着したのかと申しますと京都には各宗派の本山がありますので、すぐに見に行くことも可能ですし、実際本山の仏具の修理を手がけられることも多々あります。なぜ本山の仏具がいいかと申しますと、本山の仏具は”かっこう”がいいのです。お堂が大きいので、仏具のサイズも必然的に大きくなり、スタイルがぶかっこうではごまかしがききません。仏具は分業製で、しかも京都では前述のように木地師といってもさらに細かい区分で分かれていますので、宮殿師は宮殿ばかりを一生作り続けることになります。ところが地方では受注数も少ない為そこまで分業化されておらず、宮殿も作れば建具も作る職人さんがほとんどです。経験がものをいう業界において、一人の職人が手がける経験数が圧倒的に違います。また、仏具の作り方も伝言ゲームのように地方に行けば行くほどその地域独特のスタイルややり方のアレンジが加わっていくので、“かっこう”が本山よりかけ離れていくことになります。木地の表面は漆や金箔で隠れてしまいますが、“かっこう”はあとから手直しすることができない仏具の要です。

また木地の職人さんは製作から搬入まですべてのことを考えなければなりません。納品の時にどのような状態で搬入するのか他の仏具との兼ね合いはどうだろうかと考えてもらう時もあります。お寺の現在置かれている仏具や型合わせなどを伝えるのが私たち仏具屋の仕事です。

左記は今回訪問した職人さんが机を製作されたところの写真です。まだ彫刻が入っていないですね。彫刻の部分に入っている無地の板を木取りといい、彫刻師さんい持って行きます、その木取りを元に彫刻師が彫刻を彫って行きます。   

次回は彫刻師さんの仕事について紹介したいと思います。

新年のご挨拶/香華堂報156号[2014,01/01発行]

新年明けましておめでとうございます。年頭にあたり所感を述べさせていただきたいと思います。昨年は親鸞聖人750回から一年がたち、いよいよ一般のお寺様でも勤められることが多くなってきました。しかしながら、御遠忌法要をされたところはまだ少数で、蓮如上人の御遠忌を勤めていらっしゃらないところばかりでした。関西地区はまだまだ計画もされていないところがほとんどで、京都の本山から離れた関東地方の方が勤められたり計画されているように見受けました。

 世間の動向を見ますと、東日本大震災から今年で二年になろうとしていますが被災地の復興は少しづづですが進んでいるようで、業界内でも小さな仏具を卸す業者さんなどは結構忙しいという声をお聞きしました。しかしながら仏具のみで仏壇の購入本数は目に見えて、減ってきています。それは業界新聞などでもグラフで目に見えるように減ってきています。京都でもその傾向は顕著で、卸屋さんによると、仏壇特に金仏壇の落ち込みが激しく、お仏壇の前に置く漆塗りで金箔押しの経机さえ、在庫でもっていない状況には愕然としました。仏壇離れといわれて久しいですが、仏壇を小さなタイプにするにはもちろん、家に仏壇を置かないから引き取りだけの依頼も多いことに私も自分の事業のこれからの先行きに不安を覚えます。そして、信仰の対象が家の宗教から個人の宗教になりつつあり、それがお仏壇から手元供養という形で、ペンダンドのような首からぶら下げるようなものになりつつあります。

 当店の状況をお話しすると9月末決算で一年間の収支はなんとかプラスマイナストントンで終ることができました。これもひとえにお客様のご支援と従業員の頑張りがあったからこそと思います。心より御礼申し上げます。改めて、当店の従業員を紹介すると代表は成影幸仁で妻である麻里子が受注を担当しています。インターネット担当は入社三年目の坪野、そして昨年お盆前にパートから入りそして正社員になった女性の柳生、発送担当は私の姉の弘田がしております。また妻の実家のお姉さんにもインターネットの関連の写真撮影やアップを手伝ってもらっています。WEB担当の坪野君はネット上での商品構成がうまく、画像系ソフトが得意です。一方柳生さんは絵が上手でこのページの絵は私をモチーフして描いてくれたものです。私は結構気に入っています。

私のお寺めぐり/香華堂報155号[2013,12/01発行]

三徳山 三佛寺 投入堂  
鳥取県東伯郡三朝町三徳1010

【宗派】 天台宗 

 

 近年、古建築見学会でお世話になっている妻木先生という元大阪工業大学の先生を中心とするグループのお誘いで、今回鳥取県の国宝建築である三徳山三佛寺投入堂へ一泊二日で参りましたので、その奮闘記をお知らせします。投入堂(なげいれどう)はその名のとおり、お堂を三徳山のふもとで組み立てたのち役行者(えんのぎょうじゃ)が法力にて投げ入れたということからきており、切り立った断崖絶壁に建っている写真を一度くらいはご覧になった方もあると思います。大阪駅前に朝9時に集合しバスで出発、お昼過ぎに三徳山の麓に到着しました。まず登山口へ向うのですが、そこに向かうまでにも階段を登り数ヶ所かのお堂を通りすぎ、本堂に到着し、その横の道を奥に進むと、登山口受付があります。服装は動きやすいもので、靴も登山靴、手には軍手をはめて動きやすいようにリュックサックを背負っています。そして登山口受付で靴のチェックと六根清浄と書かれた輪袈裟をお借りします。靴のチェックで、OKをもらわなければ、わら草履を500円で購入し履き替えなければなりません。同行した人の中にも数人、履き替えた方がいらっしゃいました。そして、いよいよ登山開始。最初の50mくらいはゆるやかな坂を下ってまた登るという道のりで、楽勝かなと少し甘くみておりましたが、段々と登り坂がきつくなるその先に小さな祠があり、そこから垂直に延びるように、壁のような道を目前にします。そこの祠(ほこら)でまず先生の解説があるのですが、その壁のような道から降りて来る人もいるので気になって仕方がありません。お話しが終ると、木の根っこをつかみ壁のような道を這い上がるように上がって行きます。そのような道が長く続きます。しかしながら何とか一歩ずつ這い上って行くと文殊堂というお堂が見えてきます。そこはお堂の手前が岩石になっていて、土の道のように木の根っこがなくつかむところもないので、すべり落ちそうでこわい思いをしました。そのあたりには「滑落現場」と書かれた札もありぞっとしました。なんせお堂の手前はクサリをつたって上がりましたから。文殊堂は小さなお堂で幅50cmくらいの縁がありましたが、何も柵がなく、落ちれば谷底へ落ちてしまいます。おそるおそる一周しましたが、足がすくみました。そして地蔵堂や鐘楼などを経て、最後の崖を回ると広い空間に投入堂が見えました。こわい思いをしてきたからでしょうか。そのお堂を見た時の感動といったら、未だに忘れられないです。投入堂には入れませんが、先生のお話によると、約100年ぶりの修復を記念し2007年に公募により3人の方が入られたそうです。今回同行した方はその後、決死の思いで帰ってきた戦友のように仲良くさせていただいた思い出深い旅行でした。

私のお寺めぐり/香華堂報154号[2013,11/01発行]

岡崎別院  
■京都市左京区岡崎天王町26

【宗派】 真宗大谷派 

 

 岡崎別院は京都の文化ゾーンである岡崎公園の北に位置し、東に岡崎神社、北には金戒光明寺がある環境の静かな場所にあります。また別院は親鸞聖人の草庵でもあります。親鸞聖人が越後に流罪になって関東布教後、京都に戻った晩年になって最初に住んだのがここだといわれています。今回はバスで銀閣寺方面から向いました。岡崎別院前の丸太町通の岡崎神社前で降り、信号を渡って山門に向いました。山門脇には「親鸞聖人御草庵遺跡」と書かれた石碑があります。山門をくぐると、正面に本堂が見えてきます。二重屋根でその上屋根の妻が見えるあまり見かけない屋根の形です。本堂内に入ると、立派な御宮殿が正面にあります。外に出ると、本堂左脇には八房の梅の木と鏡池があります。この鏡池はここ岡崎別院の機関紙の名前になっていて、別名「姿見の池」と呼ばれています。聖人が越後流罪になった際に、ここの鏡池に自分の顔を映したといわれています。また「八つ房の梅」は親鸞聖人のお手植えといわれています。

 また岡崎別院は僧侶の学び舎でもある大谷専修学院が別院の左手にあります。その裏手には庭園があり、その一角には信國淳元院長の言葉「われら一向に念佛申して 佛天のもと 青草びととなりて 祖聖に続かん 淳」と刻まれています。裏には「記 信國淳先生は信心の人として南無阿弥陀仏こそが我らの『我が名』であり阿弥陀仏の浄土こそが我らの『我が国』であることを、その一生をつくして獅子吼され、昭和五十五年二月に示寂された。先生のご遺言を青草碑として刻み、先生がわれら群萌の中に永遠に今現在されることを願う 昭和五十七年二月五日」とかかれています。またその庭園には池があり、その中央には赤い橋がかかっています。この橋を「必度橋(ひつどばし)」といい、こちらも信國氏の命名で善導大師「二河喩(にがひ)」の「すでにこの道あり、必ず度すべし」に由来するそうです。2009年に京都教区山城2組の方々により架け替えられたと立札があります。庭園は静かで椅子もありゆっくりできていいですね。そのあちらこちらに結婚式記念樹の立札が立っています。また訪問した時は、日本舞踊でしょうか、踊りの稽古をされていて、一般にも開放されているようです。開かれた別院を目指して、色々工夫されているなあと感じました。

私のお寺めぐり/香華堂報151号[2013,08/01発行]

茨城常総 坂東報恩寺  ■茨城県常総市豊岡町丙1586-1

東京上野 坂東報恩寺  ■東京都台東区東上野6-13-13

【宗派】 真宗大谷派
親鸞聖人直弟子性信開祖の寺院 

 

坂東報恩寺様でまず頭に思い浮かぶのは、教行信証坂東本です。浄土真宗門徒にとっては大切な教行信証(坂東本)は元々、この上野の坂東報恩寺様にあったことは聞いておりました。この坂東本を調べてみると、苦難の道を歩んで現存したことがうかがえます。元々、上野の報恩寺にあったものが大正時代の当時、近くの浅草東本願寺に預けられていたのですが、関東大震災で東京東本願寺が火事に遭い、金庫に保管されていたこの坂東本も焼失したものと思われていたのですが、なんとその金庫が火災の後取り出され、完全に冷めるのを待って開けたところ無事で難を逃れていたそうです。ここで少し教行信証のお話しをいたします。教行信証は浄土真宗本願寺派では「御本典(ごほんでん)、真宗大谷派では「御本書(ごほんしょ)」と呼ばれ、元仁元年(1224年)4月15日この教行信証の草稿本が完成したことをもって真宗教団連合では立教開宗としています。浄土真宗では一番大切な親鸞聖人の根本聖典です。

さて、二つの報恩寺ですが、まず向かったのは茨城の報恩寺様です。手前に車を止め、山門正面から入ります。山門脇に親鸞聖人御旧跡二十四輩第一番 坂東報恩寺とかかれた石碑があります。境内に入るとまず目にするのは寄棟造りの本堂です。浄土真宗の寺院は入母屋造りの本堂がほとんどなので、目を引きますね。本堂向かって右側に昭和61年10月11日12日に行われたこのお寺の開祖である性信上人の700回御遠忌法要を記念して造られた御遠忌法要記念会館が建っています。最初に書いた石碑もその当時に建立されたようです。また会館の近くには西本願寺御門主がお手植えされた杉の木が立っています。日付を見ると昭和45年に参拝されていますね。夕方だったので、本堂内には入らず、庫裡を訪問し若院様にこの報恩寺の由来書きをいただきました。その由来書きによると親鸞のお供をして関東を布教されていた性信は、元々大楽寺という真言宗の無住で荒れ果てていたこの地に以前あった沼地を舟でこられたそうです。本堂正面にある松はその舟を繋いでいた松であるようです。その寺を親鸞聖人がもらい受け、そばにいる性信に専修念仏を弘めるように命じたそうです。これが報恩寺のはじまりです。親鸞聖人が60才を過ぎた頃、京都に戻られることになりました。箱根の山まで性信もお供しましたが、関東の地で布教をするよう聖人に諭され、もうこの関東の地に戻ってくることはないだろうとかたみの品(教行信証の草稿本、浄土三部経、善導源空両氏の絵像)などを渡したそうです。その品々のひとつが教行信証坂東本なのではないでしょうか。そこで親鸞聖人は一首詠まれています、「やむ子をばあづけてかえる旅の空 心はここに残しこそすれ」。聖人の切ない思いが伝わってくるようです。その石碑は箱根の笈の平らに残されています。お寺に戻った性信は報恩寺の前に市ができるほど、多くの聴衆を集め、その人たちは横曽根門徒と呼ばれていました、性信のお墓は本堂裏側にありますが、性信像は群馬県の宝楽寺というお寺にあるそうです。それだけ多くの聴衆を集めた性信上人、一度どんなお話をされるか聞きたかったですね。次回は東京上野の報恩寺様をご紹介します。

私のお寺めぐり/香華堂報150号[2013,07/01発行]

法住寺 
親鸞聖人そばくいの木像
【宗派】天台宗
京都市東山区三十三間堂廻り町655 
         

親鸞聖人そばくいの木像ってご存知ですか。その昔親鸞聖人が比叡山で修行されていた時代、比叡山の修行に疲れ果てて、京都の町の中にある六角堂へ百日間お参りし、明け方になって戻ってくるということを続けていました。毎晩出かける親鸞を見て、他の弟子たちは女にうつつをぬかしているのではないかと噂するようになりました。その噂を聞いた師匠の慈鎮和尚は親鸞の人柄を知っていたため、その噂を信じることができませんでした。そのため、ある夜、門下の弟子を集め、ひとりひとりの名前を呼び上げることにし、その当時の親鸞の名前「範宴」と呼ぶと、範宴は「はい」と返事をしました。親鸞は下山などをしていない、やはり噂だったのだろうと和尚は安心し皆にそばをご馳走し、親鸞も食べられたそうです。翌朝、そんなことを知らない親鸞が比叡山に戻ってくると、一同は驚き、親鸞の座像の口に「そば」がついているのを見つけました。何と、親鸞が範宴として返事をし、そばを食べていたのは親鸞みずから彫ったといわれる、木像だったのです。後に、親鸞が浄土真宗を開き、高僧として有名になると、この木像は「親鸞そばくいの木像」として知られるようになりました。

私はこの像のことを、大谷大学名誉教授の故堅田先生からこの像を調べてきてくれといわれ、ここ法住寺様に初めて訪問させていただいたのが、こちらのお寺を知るきっかけとなったのです。堅田先生が興味を示しておられたのは、親鸞が生きた鎌倉時代になぜ真宗以外の他宗派で親鸞の木像が存在するのだろうかということです。前にご紹介した比叡山「大乗院」にも同じくらいの木像があります。そのことは先生の著書「真宗史考叢(しんしゅうしこうそう)」に載っていますので、ご興味のある方は一読してみてください。

最初の訪問したのは2000年頃にお伺いしたと思いますが、2012年の現在、本堂も改修され新しくなっています。2000年当時は、そばくいの木像しか目に付かなかったのですが、

その同じ内陣には平安仏所の江里康慧氏が1991年に製作された「後白河法皇」の木像が安置されています。今回訪問すると、NHKの大河ドラマ「平清盛」でその後白河法皇とのゆかりのあるこのお寺へ多くの観光客が押し寄せていました。伝説の真偽はともかく、親鸞ゆかりの地をまわり、その心意気を感じるのもまた一興ではないでしょうか。

私のお寺めぐり/香華堂報149号[2013,06/01発行]

本願寺堺別院  
堺市堺区神明町東3丁1-10

          

堺別院と聞くと、彩色が鮮やかできらびやかなイメージがあります。なぜなら、知り合いの絵師さんが、長年にわたり、本堂の彩色工事にたずさわっていらっしゃるというお話しを聞いていたからです。今回の訪問は京都から車で第2京阪自動車道から近畿自動車道を通り約1時間半、意外と早く着きました。堺別院は堺市内の中でも海側(西側)にあります。山側から西の海側へ車を進めると、それまでの大きな整備された街から昔の町並みになっていきます。別院に着く途際では道も細くなり少し迷ってしまいました。山門は現在工事中で、工事用の囲いがしてあります。境内に車を止めますが、この日はお彼岸後の日曜日なので、法事の方や境内にあるお墓や納骨堂に参拝される方で少し混雑していました。本堂で法事があるようなので急いでおまいりさせていただきました。イメージ通り本堂内は金箔が貼り直され、彩色も鮮やかです。両余間の襖絵は堺という土地柄らしく南蛮交易風景で船が大海に浮かんでいる図柄です

 法事がはじまりそうなので、そそくさと本堂を後にし、境内を見回すと本堂正面に大きな銀杏の木があります。その大きさは高さ20m 幹回り3.65mと非常に大きなものです。

本願寺派のお寺様には本山をはじめ、銀杏の木がよくあります。やはり西本願寺での伝説(※1)にならって植えられたのでしょうか?本堂右手に行くと、蓮如堂があります。蓮如堂の前には拝堂があり直接蓮如堂を見ることはできませんが、ガラス越しには見ることはできるようにはなっています。これは元々堺の豪商紺屋(こうや)道場円淨(えんじょう)に寿像(蓮如上人の銅像)を授けたり、樫木屋(さかきや)道場道顕(どうけん)に親鸞聖人御絵伝を授けるご縁によって、その後者の道場の横に「信證院(しんしょういん)」と称し、御坊を建設したことから建てられたようです。その「信證院」の額が本堂正面に掲げられています。この蓮如堂は納骨もできるそうです。また本堂左脇には与謝野晶子の句碑があります。それには「劫初より 作りいとなむ殿堂に われも黄金の 釘ひとつ打つ」これは「遠い昔から、人々が築き上げてきた殿堂に、 私も小さな釘をひとつ打ちたい。」という意味だそうです。仏具屋さん建築屋さんが詠うような句ですね。それほど、素晴らしかったのでしょうね。先日の大徳寺見学の際にも堺の豪商が伽藍建設の際に寄進されたというお話がありました。信仰厚い土地柄であることが歴史や俳句から伺い知ることができます。

 

 

 

※1 西本願寺の銀杏は根をはったような形状をしていることから「逆さ銀杏」と呼ばれています。また「水吹き銀杏」とも呼ばれ、天明の大火(1788)の時には水を吹いて御影堂などを火災から守ったそうです。銀杏は保水力に優れ、炎熱干魃に耐える力は抜群なのだそうです。果たして、本当に水を吹いたのかどうか…火事によって周囲が高熱になると、蒸発する水分が噴き出すように見えるために見られるという説もあります。

私のお寺めぐり/香華堂報148号[2013,05/01発行]

本願寺神戸別院 
兵庫県神戸市中央区下山手通8丁目1-1

          

モダン寺の愛称で呼ばれている本願寺神戸別院は神戸の中心地、JR三ノ宮から西に一駅行った元町駅からところからすぐのところにあります。その威容から仏教寺院には見えず、教会やモスクのように見えます。こういった西洋式の建物は東京の築地別院や名古屋西別院にも見受けられます。電車での行き方をご説明しましたが、今回は車で行きました。三ノ宮の繁華街を通り、JR線沿いに車を走らせ、高架の下をくぐり、少し行くと突然あのモダンなお寺が現われます。駐車場は地下にあるので、止めさせていただきました。ホームページによると60台の駐車スペースがあるようです。車を止めて一階の玄関から入ります。一階はホールになっており、舞台の上には台座のない、蓮華だけの阿弥陀立像の御本尊が安置されています。この御本尊の形式は浄土三部経の中のひとつ、観無量寿経というお経の‘無量寿仏 住立空中’の文言から引用して、製作されたものと思われます。御本尊の周りが鮮やかな彩色で華やかな感じです。私も以前、このような阿弥陀如来像を仏師に依頼して製作し納品したことがあります。さて、本堂は都会のお寺様らしく、3階にあります。現在の本堂は阪神大震災があった年に完成しましたが、その当日にはまだ中の仏具は修復中で、被災を免れました。以前の本堂も西洋式の本堂でしたが、大正6年に建てられ老朽化が激しかったため、建てかえられたようです。港があり、海外からも多くの人が訪れる神戸にはピッタリの本堂だと思います。3階のエレベーターを降りると、本堂も建物と同じく、教会を思わせるような高く丸い天井、石でできた柱など木造の本堂とは何もかもがちがう、異国の世界に飛び込んだような雰囲気です。御本尊を安置する御宮殿、厨子、欄間などあらゆる仏具がインドにあるような仏具です。特に私が注目したのは中尊前の前卓です。緑色の色をベースに薄紫や白の藤の花が下っているのが人工的な仏具ではなく、森の中に自然にできた机のような雰囲気があります。また、外陣だけでなく、内陣にも椅子式を取り入れられています。この形式は後につづく、椅子式の本堂の参考にもなったことでしょう。なお外陣の椅子はメモ台付のもので、これなら経本を膝の上に置かずともいいなあと思いました。案内によると本堂上にある納骨壇も西洋式の屋根が付いたもののようです、デザインを徹底されていますね。せっかく神戸まできたので、帰りは南京町で食事しました。神戸は街自体も洗練されていて、訪問するのも楽しいですね。

私のお寺めぐり/香華堂報147号[2013,04/01発行]

石山本願寺跡(蓮如上人袈裟掛けの松)  
大阪城内(大阪市中央区大阪城1-1) 
         

今回は大阪城内にある石山本願寺跡を訪問した時のお話をさせていただきます。大阪城公園には、園内にある大阪城ホールにはコンサートで若い頃からよく行きましが、その時には、JR環状線の大阪城公園駅で降りて行きました。今回は大阪城公園全体の地図を見ていると奈良の寺々のように大阪城の天守閣が北を背にして南向きに立っていることに着目し、大阪城公園

南東の森之宮駅で降りて北西を目指し、大阪城敷地内にある石山本願寺跡に向かいました。ここで参考ですが、古いお寺を見学する際には、なるべく徒歩で、そして南の方から入ると、南大門や門内の仁王像、獅子を見ることできるので見逃さずにすみます。近年は車でおまいりしやすいように本堂の真横に止めることができるお寺もありますが、私はそのような場合でも、わざわざ門の方に回るようにしています。本題に戻りますが、環状線森之宮駅を降りて大きな交差点を渡ります。入り口には地図があり、ここで旧跡がどこにあるか地図とにらめっこです。大体の位置を頭に入れて進みます。城内の道を進んで行くと天気がよかったのかもしれませんが、犬を散歩したり子供たちが遊んだりしてほのぼのとしています。しばらく行くと噴水があり、気持ちいいですが、その噴水を中心にして放射状にいくつもの道があります。少し迷いましたが、一つの道を決めて進み始めました。途中大きな石垣や石段があり、起伏に富んでいて一緒に行った子供も楽しそうです。大型バスの駐車場に行ったりして少し迷いましたが、ようやくご旧跡手前の門が見えてきました。案内板によると桜門と呼ばれ本丸の正門にあたるそうで、重要文化財だそうです。ここは多少車も来るので注意が必要です。そこを抜けて左に曲がって行くと、小さな小屋と石碑が見えてきます。この小屋は「蓮如上人袈裟掛けの松」の切株をおおった屋根です。袈裟掛けの松とは本願寺第八代蓮如上人がここ山科本願寺の後、ここ大阪城の地に本願寺を建て、ここの切株だけになっているここの松に袈裟をかけ宗派の繁栄を願ったとされています。切株は大阪城を再築した地表にあることから、これはあくまでも伝説に過ぎないと考えらます。しかしながら、西側に蓮如上人の筆を用いた「南無阿弥陀仏」のの六字名号の石碑が建てられるなどして大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されています。

その後、大阪城をめぐり、大阪を満喫しました。中国からの観光客が多くてびっくりしましたが、ここ大阪城は中国の方に大人気だそうです。京都御所より少し大きな大阪城公園、起伏があって公園内をめぐりながら旧跡を訪ねるのもいいかもしれません。