高須別院 二恩寺(真宗大谷派)
〒503-0653 岐阜県海津市海津町高須町932
岐阜県のとあるお寺様よりご紹介を受け、岐阜県南部地域を営業で行く際に、高須別院へお参りしてきました。
高須別院は二恩寺とも呼ばれ、外側にも「二恩精舎」の扁額(へんがく)が掲げられています。二恩寺の由来は仏恩と世恩のことで、阿弥陀仏と東本願寺、そして高須藩や門徒の先人たちのことで、この二つの「おかげ」をいただいてここに御坊があるという意味だそうです。
元々、桑名別院の掛所(支院)だったようですが、明治11年(1878年)に桑名別院から独立しました。
さて、岐阜中部地域から堤防の道を走っていると内陸に向かうと立派な大屋根が見えてきました。本堂正面右手には「親鸞聖人像」、左手には「蓮如上人像」の銅像が鎮座(ちんざ)しています。本堂がより威風堂々(いふうどうどう)した感じになりますね。本堂に入ると内陣の御宮殿はじめとする仏具や欄間(らんま)は修復して間もないようで煌(きら)びやかでした。
別院のパンフレットによると創建は江戸時代ですが、火災や地震、洪水など幾度となく再建を繰り返されてきたとありました。幕末再建の棟梁(とうりょう)は名古屋の伊藤平左衛門八世。明治に東本願寺を再建した伊藤平左衛門九世の父親にあたる人物だそうです。
明治24年、濃尾地震で本堂は倒壊し、幾度目かの再建に向けて尽力しますが、明治29年夏、未曾有の大洪水がおころ、再建用に準備されていた資材はことごとく流失、再建事業は振り出しに戻ってしまいました。
それを見かねて立ち上がったのが明治の終わりに結成された婦人法話会(現在の大谷婦人会)の女性たちです。
彼女たちは自分の髪の毛を持ち寄り、それを漆で固めて仏像にして「毛仏」としました。そして浄財集めに東奔西走し、ついに大正十五年、現在の十五軒四面の本堂が完成しました。毎年春の法要では「毛仏さん」が公開され「毛仏法要」が勤まるようです。
また幕末の頃、この海津出身の平井ショウさんという女性は念仏者のお父様の影響を受けて、たいそう熱心にお寺参りをされました。嫁入りの際にもお寺参りができることを条件に東京の家へ嫁いだそうです。
結婚後も聞法を続けていたショウさんですが、昭和19年、戦争激化により新潟の赤倉ホテルに疎開されました。親鸞聖人が流罪になった新潟には浄土真宗の教えが深く根づいていたことから、ショウさんはたいそう喜び、多くの聞法仲間が増えていったそうです。
昭和32年、ショウさんは94才で浄土へ還られましたが、三回忌が済んだ時から「有縁講」という集いが始まり、会場の赤倉ホテルにはロビーに大きな仏壇が安置され、今も11月に「有縁講」が勤まっているそうです。
新潟にお仏壇があるホテルがあることは風の噂で何となく耳にしていましたが、はっきりと経緯を知ることができ、有意義な訪問となりました。