別院めぐり/香華堂報250号[2023/08/01発行]

赤羽別院親宣寺(真宗大谷派)
〒444-0427 愛知県西尾市一色町赤羽上郷中14

赤羽別院親宣寺 赤羽別院山門
赤馬援別院山門


愛知県三河地方に出張に行った際に、西尾市に赤羽別院があることをお得意様のお寺様から教えてもらい、お参りに行ってきました。

まず、木造の大きな山門に圧倒されます。しかし、本堂は鉄筋製の本堂でした。案内によると、1945年(昭和20年)、三河地震により、山門と本堂以外の諸堂が全壊、その後、1959年(昭和34年)、今度は伊勢湾台風により、本堂が倒壊した結果、このような違いとなったそうです。


赤羽別院の歴史を振り返ると、この地は、平安末期に赤羽根城があった所で、山門近くにもその案内板が立っています。その赤羽根城の隣地に、蓮如上人が三河を教化するため、応仁2年(1468年)頃に念仏道場を建立し、近隣はたいそう賑わっていたそうです。


戦国時代になり、永禄三年(1560年)、「桶狭間の戦い」で織田軍に今川軍が敗北します。今川家家臣の吉良義昭配下であった赤羽根城主・高橋政信は、徳川家家臣の酒井正親によって攻め込まれ、永禄4年(1561年)、猛攻に耐え切れず落城しました。このような時代の中で念仏道場も荒廃し衰退の一途をたどり、次第に廃墟化していったそうです。


その後、江戸時代になり、元禄13年(1700年)、この地域出身の江戸公方御家人(えどくぼうごけにん)、本目勝左衛門親宣が両親の菩提寺を三河の地に求め、西尾藩主に請願したところ、赤羽根城跡地を含む念仏道場跡地が与えられ、元禄14年(1701年)八月、東本願寺第十七代・真如上人より「本目山」の山号と「親宣寺」の寺号が授与され、この地を菩提寺としました。


創建は元禄14年(1701年)ですが、親宣は宝永元年(1704年)、江戸にて病に倒れ68才で死去したので、一度も親宣寺の姿を目にすることがなかったそうです。しかし、山号と寺号にその名を遺すこととなりました。寛政十年(1798年)には、本願寺掛所となり輪番がおかれ、名実ともに別院の寺格を得ました。三河別院の創建が明治期なので、それまではこの赤羽別院が西三河の拠点となっていたことは歴史を辿るとよく分かります。

赤羽別院親宣寺 赤羽別院本堂
赤羽別院本堂



さて、山門右から境内に入ると車を止めることができました。丁度、掃除されている方がおられたので、ご紹介のお寺様のご縁で来寺したことを告げると、別院についてお話をお聞きすることができ、案内もしてくださいました。本堂は椅子式で近代的なつくりとなっています。他に、境内にはクリニックで有名な高須克弥氏の曾祖父が別院に多大なる功績があったため、それを記念に石碑が置かれ、本堂裏側には高須家の供養塔がありました。

この原稿を書くにあたって赤羽別院の歴史を調ましたが、建立には多くの方々が関わり、一方で災害や戦災にも見舞われたことを知り、そのご苦労を偲ばずにはおられませんでした。

特別編集/香華堂報249号[2023/06/01発行]

東本願寺彫刻ガイドツアー

2023年3月~5月にかけて東西両本願寺で「親鸞聖人御誕生850年ならびに立教開宗800年慶讃法要」が行われていましたが、それに合わせて企画された「東本願寺彫刻ガイドツアー」に参加してきました。

阿弥陀堂門 ライオン風彫刻 東本願寺彫刻ガイドツアー
阿弥陀堂門 ライオン風彫刻

 

当日は御影堂門に集合です。説明は、真宗大谷派瑞泉寺(ずいせんじ)(富山県南砺市)門前にある井波の彫刻師の方です。東本願寺と瑞泉寺は、互いに焼失する度に互いに彫刻師を派遣し協力し合ってきたそうです。

ゆえに、瑞泉寺の門前町には、現在でも100人以上の彫刻師が在住し、井波彫刻といえば全国的にもその名を轟かせています。

 

 

まずは御影堂門正面の龍の彫刻から説明を受けました。見上げると、東側と西側にそれぞれ龍の彫刻があります。

東側(烏丸通側)の彫刻は尾張の彫刻師、早瀬長兵衛氏。西側(御影堂側)の彫刻は井波の彫刻師、岩波理八氏(当時 彫刻主任)が彫ったそうです。

見比べると、烏丸通側の龍の彫刻は雄大で龍の髭(ひげ)が木の素材でできています。一方、御影堂側の龍は繊細で、髭の素材は銅でできています。その上金箔なので、髭を見ると一目で違いが分かります。

 

続いて御影堂に移動しました。まずは向拝(ごはい)柱の木鼻(きばな)(虹梁(こうりょう)の端の彫刻)の獏(ばく)についてです。こちらの獏は、左右共に口が開いています。神社の狛犬は、多くは向かって右が口を開けている阿形像(あぎょうぞう)、左が口を閉じている吽形(うんけい)像で阿吽一対となっています。

ところが、御影堂の木鼻は、両側の獏が口を開いていて、向かって右は舌が上顎(うわあご)に付いていない吽形像、左は上顎に付いている阿形像となるそうです。

なお阿弥陀堂の木鼻は象、阿弥陀堂門の木鼻は何とライオンだそうです。確かに近くで見るとライオンのような風格がある彫刻です。なぜライオンなのでしょう。

歴史を遡(さかのぼ)ると京都市動物園が出来たのは1903(明治36)年ですが、その3年後の1906(明治39)年に上野動物園から京都市動物園にライオンがやってきたそうです。阿弥陀堂門が再建されたのが1911(明治44)年なので、初めて見たライオンを見た彫刻師が、感動でこの彫刻を彫ったのではないかと推測されているそうです。

 

御影堂 鹿に楓彫刻 東本願寺彫刻ガイドツアー
御影堂 鹿に楓彫刻

 

さて、次に案内されたのは御影堂門向かって右奥にある鹿に楓の彫刻です。以前から間近で見られ、繊細で好きな彫刻です。彫刻師の方もお手本となる彫刻だそうです。

その後、御影堂内中に入りました。蓮や楽器を持った彫刻はとても立体的で、金箔も奥まで押す必要があるため、今までの木地彫の彫刻とは違い、付け彫りになっているとのことでした。最後に阿弥陀堂に移り説明を受け、御影堂に戻りました。

ある程度、知っているつもりと思っていても専門家による説明は新たな発見があって感服することばかりです。やはり一生勉強ですね。またこのような機会があれば参加したいと思います。

私のお寺めぐり /香華堂報248号[2023/04/01発行]

誕生寺(法然上人ご誕生の地)②
  〒709-3602 岡山県久米郡久米南町里方808

今回は法然上人がお生まれになった誕生寺にまつわる七不思議を中心にお伝えできればと思います。

栃社山 誕生時 岡山県 漆間時国
法然上人が旅立ちされるときの像

1.逆木の公孫樹(さかぎのいちょう) :法然上人15才旅立ちの時、那岐(なぎ)の菩提寺(ぼだいじ)の公孫樹の杖を地面に挿して比叡山に出発されました。その際、公孫樹の杖を逆さに挿したため、枝が上から地面を這うように根付いたと言われています。(境内)

  1. 御影堂の宝珠(みえいどうのほうじゅ):御影堂の屋根の中央にある宝珠。この宝珠の方角が西方浄土にあたります。(境内)
  2. 御鏡(みかがみ):母、秦氏君の涙のあとが残る手鏡。法然上人との別れを悲しまれた母の涙のあとが残っている銅鏡。涙が落ちた後は人の顔を映さなくなったと伝わっています。(宝物館)
  3. 石仏大師(いしぶつだいし):法難を予告した石像。天正六年当時の住職であった深誉上人は、片目川より光る法然上人の石像を発見し手にしたところ、光は消え失せます。何か異変が起こると感じ、その像を産湯の井戸に沈め隠された。その直後、豪族の襲撃により御影堂は破壊されたが、幸いその石像は災難を免れました。(御影堂脇壇)
  4. 黒こげの頭:法然上人のお顔だけは焼けなかった文楽人形。大正15年11月27日の夜、大阪文楽座の大火で、不思議にも法然上人の人形の顔の部分だけが焼ける事なく神々しく残っていました。それ以降、文楽座では「法然上人恵月影(めぐみのつきかげ)」の人形芝居を上演しなくなりました。(御影堂脇壇)
  5. 椋(むく)の御影(みえい):法然上人の御影跡が残る椋の真木。法然上人御誕生の際、二つの白幡が飛び来て椋の枝に掛かった。その初代の椋が枯れた時、真木より上人のお姿が昇天したという。その跡影。(客殿)
  6. 人肌のれん木:法然上人の肌の温かさを保ちつづけているれん木。15才の法然上人が比叡山に旅立つ際、身体を暖めるために母に与えた、孝養(こうよう、)の銀杏れん木。法然上人自らの肌の温かさを保っていると云う。(客殿)

注目したいのは、1の山門入ってすぐのところにある銀杏の木です。15才の時に比叡山へ旅立ちの際の杖がこの木の由来ですが、なぜ法然上人が旅立つこととなったのでしょうか。

それは法然が9才の時に、父である漆間時国(うるまときくに)と反目していた敵の源内武者明石定明(あかしさだあきら)の夜襲にあい、父・時国は非業の死を遂げます。その父が臨終間際に、少年の法然上人を呼び寄せ、決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、全ての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しいという遺言を残し、息を引き取りました。その後、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られましたが、その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧められて比叡山に行くことになったそうです。

漆間時国の言葉は現代でも通じる金言(きんげん)です。現代では夜襲にあったり仇討ちをすることはありませんが、恨んだり憎しんだりしてはならないということの戒(いまし)めとして心に留めておきたいです。

私のお寺めぐり /香華堂報247号[2023/02/01発行]

誕生寺(法然上人ご誕生の地)①  
〒709-3602 岡山県久米郡久米南町里方808

 

誕生時御影堂 栃社山 とちこそさん
誕生時御影堂


広島出張の帰り津山に宿泊して次の日、法然上人ご誕生の地である誕生寺にお参りしてきました。津山駅周辺に宿泊しましたので誕生寺までは車で約30分程です。


 
駐車場に車を止めて山門に向かうと、日曜日ということもあり、多くの人がおられました。山門をくぐると目の前に大きな銀杏の木が迎えてくれます。この銀杏は誕生寺の七不思議の一つとなっています。その銀杏を抜けると御影(みえいどう)が見えます。このお堂は一重目に唐破風(からはふ)のある立派な二重屋根です。お堂の正面には「誕生律寺」の扁額(へんがく)が掲げられています。誕生寺は江戸時代に浄土宗の一派「浄土律」であったのでその名残としてこの名前となっているようです。

御影堂の扁額 栃社山 とちこそさん 誕生時
御影堂の扁額


 
堂中に入ると法然上人が御厨子(おずし)の中に安置されています。内陣まで入ることができるので七不思議の由来となる像などを見ることができました。お堂を出て左側に阿弥陀如来座像が安置されている阿弥陀堂があります。現在は瑞應殿(ずいおうでん)と呼ばれています。境内には有料(200円)で拝観できる方丈(ほうじょう)、庭園、宝物館があります。方丈では法然上人の御絵伝を間近で見ることができ、説明文が記されているので、分かりやすく見ることが出来ました。また、親鸞聖人と聖徳太子像の掛軸(かけじく)のかかった部屋もありました。

 


御影堂の南側には片目川という川が流れています。名称の由来は、9歳の時に夜襲を受けた勢至丸(法然上人の幼名)が、弓で敵の明石定明(さだあきら)の右目を射ち、射られた定明がこの小川でその目を洗ったところ、それ以後、この川には片目の魚が出現するようになり、川そのものも片目川と呼ばれるようになったそうです。

 

栃社山 誕生時 とちこそさん
産湯の井戸


奥には御両親御霊(れいびょう))という札がかかっている門があり、その奥には勢至堂というお堂があります。その左奥には法然上人産湯(うぶゆ)の井戸があります。

 


法然上人は、父を漆間時国(うるまときくに)公、母を秦氏君(はたうじのきみ)の元、1133年4月7日にご誕生されました。誕生寺は、元は漆間家の邸宅でしたが、法然上人に帰依し出家した熊谷直実(くまがいなおざね)(後の法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい))が、師の命を受けて建立した寺院です。

 


御両親の御霊廟や誕生寺の案内パンフレットによると毎年4月の第3日曜日に法然上人のご両親ご追恩法要があるとのことで、誕生寺は法然上人はもちろん、ご両親も手厚く供養されているとの印象を受けました。

 


次回は誕生時七不思議の説明などをしたいと思います。

特別編集/香華堂報246号[2023/01/01発行]

 

寺川ゼミ生による寺川俊昭先生一周忌法要
西願寺報恩講
2022年11月4日(金)~11月6日(日) 

広島県庄原市西城町大佐1019 

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11月4日(金)
寺川ゼミ生による寺川俊昭先生一周忌法要及び 墓前読経

11月5日(土)
西願寺報恩講 日中 
法話・大谷大学准教授 藤原正寿師

西願寺報恩講 逮夜 
法話・学仏道場回光舎 高柳正裕師

11月6日(日)
西願寺報恩講 満座 結願日中

 法話・大橋恵真師 柏原市 遠慶寺 
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寺川俊昭先生一周忌法要
藤原正寿先生の法話


243号で紹介した大谷大学名誉教授である寺川俊昭先生の一周忌法要及び西願恩講が上記の日程で行われましたのでその報告をしたいと思います。

私は仕事の都合上、4日(金)の宿泊場所での懇親会から5日の逮夜まで参加させていただきました。

5日は10時からおまいりしました。法話で印象に残ったのは大谷大学准教授である藤原正寿先生による法話でした。藤原先生は大谷大学の卒業生で、入学して友達に勧誘されたクラブが伝道部で、その顧問が寺川先生だったということです。

法話の内容は、一緒にインドに旅行された話や先生名義の本を陰でサポートされた話など、寺川先生の姿が思い出され、目頭が熱くなるお話ばかりでした。


寺川俊昭先生一周忌法要
寺川先生の似影

その後、ほんの数日前に本山から出来上がってきた寺川先生の似影が紹介されました。似影とは、写真をもとに亡くなられた僧侶を描いたもので、先生と言えば眼鏡姿が特徴ですが、そういう現代的なものはなく、袈裟の色などは一階級上のものを着衣して描くそうです。



昼休憩に入り本堂裏手にあるお墓をお参りしました。この一周忌法要を企画された岡田さんが案内して下さり、お焼香させていただくと感極まるものがありました。

帰りには本堂の前で記念写真をとり散会しました。

寺川俊昭先生一周忌法要
左から御手洗氏・西願寺住職・高柳先生・岡田克也氏




今回、3月の偲ぶ会に続き、一周忌法要のお参りして感じたことは、寺川先生は親鸞聖人の言葉を口伝した唯円が著した『歎異抄(第六条)』にも書かれている「弟子一人ももたずそうろう」という言葉を実践されていたことです。

それは私たち学生にも敬語を使い、あくまでも仏様の教えを一緒に学ぶ仲間(仲間というにはおこがましいですが)として捉えられていたのではないかと思います。最近は忙しさを理由に法話に接する機会が少なかったですが、この法要を機縁としてまた少しずつ聴聞の機会を増やしていければと思います。

最後になりましたが、西願寺住職で寺川先生のご子息である寺川大雅様、ゼミの一周忌法要を企画案内してくださった岡田克也様、また法話して下さった先生の皆様、心より御礼申し上げます。

浄土真宗ご旧跡めぐり /香華堂報245号[2022/10/01発行]

浄土真宗本願寺派
勝興寺  〒933-0112 富山県高岡市伏木古国府17番1号

勝興寺 浄土真宗本願寺派 高岡市 富山県 国宝


2022年のお盆休み、久しぶりに妻の実家がある富山に行きましたので、高岡市伏木にある勝興寺様へお参りに行ってきました。

勝興寺は1998年(平成10年)から国の補助を受け、23年という長期に(わた)る修復を終え、2021年(令和3年)の4月19日に竣工されました。

雨模様の中、無料駐車場に車を止め、拝観料大人500円を払い総門から入ります。案内によると総門は国宝・重要文化財の中では最大級で京都の興正寺より移築されたものだそうです。


勝興寺 浄土真宗本願寺派 富山県 高岡市 国宝

総門を入ると大きな亜鉛合板葺きの本堂が正面に見えます。本堂は金箔の美しさが際立ちますが、それ以上に両側にそびえ立つデカローソクが目に入ります。ローソクの高さは約1.8mあるそうですが白木の台に載っているのでより高くそびえ、報恩講の際には実際に火が灯されるそうです。外陣中央に吊られている四角灯籠も大きく、豪壮な県民性の現れかもしれませんね。

扁額(へんがく)には「殊勝誓願興行教(しゅしょうせいがんこうぎょうきょうじ))」と書かれています。以前は土山坊といわれていましたが、永正14年(1517年)寺号を本山に申請したところ、佐渡にあって廃絶していた順徳上皇勅願(じゅんとくじょうこうちょくがんじょ))「殊勝請願 興行寺」を再興相続して、勝興寺と称することを認められ、その由来が扁額になったそうです。

次に向かったのは本堂右手にある大広間や式台です。大広間や書院、台所など多くの部屋があり、蒔(まきえ)が施された駕(かご))や洛中屏風(らくちゅうびょうぶず))など豪華な丁度品は、往時の権威を感じるものです。


勝興寺には七不思議と呼ばれる逸話があり、少し紹介します。

一、実ならずの銀杏
境内の銀杏の木。なんでも、昔、子供たちが銀杏の実を取ろうとして、木から落ちたり実の取り合いになったのを見兼ねて、住職がお経を唱えたところ、翌年から実をつけなくなったそうです。

二、天から降った石
この石は200年ほど前、近くの国分浜へ落ちてきたといわれ、石を叩くとカンカンと金属音がします。

三、水の涸(か)れない池
境内にある池。火災の折、池にいる龍が水を吹き放って火を消したといわれています。 それ以来、この池はどのような大干ばつの時でも龍が雨を呼び、水が涸れることはないといわれています。

四、屋根を支える猿
本堂北東隅の外側柱の上端にある彫刻で本堂を支えていると言われています。現在では猿ではなく邪鬼といわれています。

五、魔除けの柱
本堂南側の余間にあります。本堂はケヤキで作られていますが、この柱1本だけは、材質の異なる桜でしかも逆柱として使用されています。

 六、雲龍の(すずり))
別名「墨(すみ)が涸れない硯」。 本願寺八世蓮如上人の愛用の硯で、上人が使われる時だけ自然と水が出たと伝えられています。

七、三葉の松
葉を3枚つける珍しい松の木。今ではなかなか見つからず、見つけると極楽往生できるとか。和歌山県・高野山の奥の院にやはり3枚葉の松があります。在来種では珍しいそうです。


妻の親戚の方によると、地元の学校が郊外学習に勝興寺を訪れ、七不思議の説明を受けることもあるそうです。一般の方には七不思議を含めて参拝されるとより興味をもたれるかもしれませんね。

私のお寺めぐり /香華堂報244号[2022/08/01発行]

湖東三山めぐり

西明寺(天台宗)  〒522-0254 滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26

金剛輪寺(天台宗)〒529-1202 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874

百済寺(天台宗)  〒527-0144 滋賀県東近江市百済寺町323

 

 

西明寺本堂
西明寺本堂

二〇一一年、湖東三山と呼ばれる三ヶ寺が、日本の紅葉百選に選ばれました。最寄りの名神高速道路湖東PAにスマートICが併設され、アクセスがよくなったのでお参りしてきました。三ヶ寺とも高取山の麓にあるお寺です。

まずは一番北にある西明寺からです。母の地元が近いので、唯一訪問したことがあるお寺様です。本堂近くまで階段があり、まず、持国天・増長天がある二天門へ向かいます。

門をくぐると、正面に本堂、右手に三重塔が見えてきます。本尊は秘仏薬師如来立像です。2022年は三十六年に一回の五黄の寅の年に当たるため、十二月八日まで特別に御開帳されており、お姿を拝見することができました。

御本尊両側には日光・月光菩薩、眷属の十二神将などが安置されています。頭の上に二支の動物を乗せた十二神将はユーモラスな親しみやすく、自分の生まれ年の干支の十二神将に願いを託す参拝者も多く、「えと寺」として有名です。自分も家族と行ったので、それぞれ自分の干支を探しました。

 

金剛輪寺 お地蔵様
金剛輪寺 お地蔵様

次は金剛輪寺です。湖東三山PAのすぐ西にあります。境内下の駐車場から、色々な建物やお庭を拝観しながら二天門に向かう長い道のりを歩きました。参道の両側にはお地蔵さんと供えられた風車が、お参りする人を和ませてくれます。途中には可愛いお地蔵さんが数百体並び、インスタ映えしそうな場所もありました。

二天門に着くと、門に掛かるわらじの大きさに驚きました。これは三ヶ寺ともにあるのですが、こちらのわらじはひときわ大きく仁王様の履物と呼ばれています。当初は小さなものだったそうですが、参拝者が触ってご利益を得たいという要望に応えて今では巨大サイズになっているそうです。

さて門の向こうには本堂、左手の小高い丘の上に三重塔があります。御本尊は十一面観音ですが、秘仏のため前立本尊がいらっしゃいます。

 

百済寺本坊庭園
百済寺本坊庭園

最後は百済寺です。一番南に位置するお寺です。駐車場は中腹にあり、まず向かったのは本坊庭園です。この庭には池を横切る石橋があり、また鯉がたくさん泳いでエサやりもできるので子連れでも楽しめます。

他のお寺と同じように階段を上がっていくと仁王門、その先に本堂があります。本尊はこちらも秘仏十一面観音像で前立がいらっしゃいます。また内陣と外陣が格子で隔てられています。外陣には「なで仏」の賓頭盧(びんずる)さんや閻魔(えんま)大王の像があります。

 

西明寺と百済寺は五木寛之氏の『百寺巡礼』にも選ばれています。昼食は多賀大社前の名物の鍋焼うどんをいただきました。紅葉シーズンが最もきれいなようなので、また出来れば秋に足を運びたいものです。

特別編集/香華堂報243号[2022/06/01発行]

寺川俊昭先生を偲ぶ会/大谷大学講堂2022年3月19日(土)
〒603-8143 京都市北区小山上総町 

寺川俊昭先生の先生の揮毫
先生の揮毫

私事ですが、真宗学に大きな功績を残された大谷大学名誉教授である寺川俊昭先生が2021(令和3)年9月28日に命終されました。私が大谷大学真宗学部に学び、三・四回生の二年間、ゼミでお世話になった恩師です。その先生の偲ぶ会が大谷大学で行われましたので、その報告をしたいと思います。自分は大谷大学の真宗学に進み3・4年生の2年間ゼミでお世話になりました。

当日、法要に合わせて作成された追悼 寺川俊昭先生「安慰の大道」と寺川ゼミ生追悼文集の冊子が配布されました。午後1時より追悼法要が行われました。現宗務総長や前大谷大学々長など錚々たる人々が焼香され寺川先生の元で多くの方々が学んでおられたことを知り驚きました。私も焼香し、先生への感謝を念じ、御礼申し上げました。

法要後は卒業生が、寺川先生への思い出を語られていきました。私の印象に残ったのことは先生は学生にも常に敬語で話されていたこと、また「業を果たす」という言葉をよく使われていたことです。常に話す相手に敬意を持ち、「業を果たす」という言葉は今置かれている立場にもっと真剣になれと言われているように思いました。最後に外に出て記念撮影しました。先生の元に集まった同志の皆さんと晴れやかにお会いできて感激いたしました。

寺川俊昭先生 当日配布された「安慰の大道」「追悼文集」(法蔵館で販売中)
当日配布された「安慰の大道」「追悼文集」
(「安慰の大道」のみ法蔵館で発売中)

 


配布された追悼文集には私も寄稿しましたので、恥ずかしながら要約してご紹介したいと思います。

「自分が大谷大学に入る“きっかけ”になったことからお話しします。自分の曾祖父は明治の頃より金箔押職人をしておりました。昭和に入って東本願寺のご用達である七条烏丸南東角にあった仏具商の福井弥右衛門商店から事業承継を依頼され、その店を任せられました。その後、福井弥右衛門商店さんに商号をお返しし、現在では香華堂という商号で営業しております。

そんな家の四代目として生まれた自分は小さい頃から家業を継がなければという雰囲気が周りの皆さんや、お寺様からもあり自分もそんなつもりでおりました。

しかしながら、順調なことばかりではなく小学生時に事業が傾き、規模を縮小しながら大学受験の頃は細々と営業しておりました。

そんな中で、お寺様とのご縁ができ商売にも生かせるのではないかということで大谷大学文学部真宗学科に進むことになったのです。3回生になるとゼミ選択の時がきました。当時、人気があったのは寺川俊昭先生と広瀬杲(たかし)先生です。お恥ずかしい話ですが、先生のことは全く知らず、友達に誘われて寺川先生のゼミに入った次第です。先生のゼミは真面目な方が多く、場違いなところに来てしまったと焦りましたが、先生は優しくどんな質問にも丁寧に答えてくださいました。ゼミでは歎異抄を学び、自分の発表は第四条の「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」でした。忘れもしませんが、その発表当日に寝坊してしまいましたが、先生初めゼミ生にも咎められず、謝りまくって発表したのを覚えています。

そして四回生になり興正寺会館で卒論に向けての一泊合宿をしました。まずは卒論のテーマを何にするかがですが、先生に相談すると、ゼミで担当した歎異抄四条から深めていってはどうかと言われ、そのご指導の下、無事書き上げることができました。卒論の題名は「真実信心」です。

卒論の口頭試問では内容について色々と質問をされましたが、後半は父のことや商売のことを尋ねていただいて心配し下さったことを覚えています。卒業して30年余りが経ちますが、現在でも事業を続けていられるのは寺川先生初めゼミ生の皆さん、多くの大谷大学のOB及び関係者の皆様のお陰と思っております。寺川先生には深く深く感謝申し上げて私の寄稿の言葉とさせていただきます。先生、本当にありがとうございました。」紙面の都合により再編集しております

私のお寺めぐり/香華堂報242号[2022/04/01発行]

立木観音(浄土宗)立木山 安養寺 
〒520-0865 滋賀県大津市石山南郷町奥山1231 

立木観音 本堂入口
本堂入口


京都・滋賀では厄年に当たる歳に立木観音にお参りするという風習があります。正月など親戚が集まると今年は誰が厄年で立木さん参りの話題で盛り上がります。自分も小学生くらいに薄っすら行った記憶はあるのですが、妻がとあるお店の方が行ったという話を聞いて1月中旬に家族で参拝してきました。

京都からだと下道40分くらいで最寄りの駐車場まで行けますが休日だということもあり満車で警備員さんに誘導されて近くの瀬田川の河川敷に駐車しました。

立木観音は立木山の頂上にあり、たどり着くのに800段余りの階段があります。また立木観音といえば800段の階段というくらい有名です。

立木観音 階段登り口
階段登り口


さて、登り口に立ち気合を入れて登り始めまます。しかし、沢山の人々が登って来られるので、後ろからのプレッシャーと戦いながら足を進めて行きます。途中、家族が休憩したいと言ったので、合わせて休憩できるのでホッとします。

休憩は踊り場でするのですが、そこには一般の方が寄進された句碑があり、それを読むと心が和みます。少しずつ階段を進めて、ようやく頂上に着きました。所要時間は約1時間、普段運動不足の自分には程よく汗を掻くことができました。

本堂のお参りには多くの方が順番待ちされていました。自分の番が来ると、お賽銭を入れ鰐口を鳴らしお参りします。本堂内部は薄暗くてあまりよく見えませんでした。

立木観音 空海上人石造
空海上人石造

寺伝によれば、弘仁6年(815年)、空海(弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木が目にとまり渡ろうとしたが川の流れが速く思案していると、雄鹿が現れ大師を背に乗せ対岸まで運んでくれました。対岸に着くと雄鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え消え去りました。

この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、それを本尊としてこの寺を建てたとのことです。この時、空海が厄年の42歳であったとされるため、広く厄除の霊験あらたかな観音像として信仰されることとなったそうです。

奥の方に目をやるとまたもや行列がありました。こちらは奥の院をお参りされる列で、立木山を御守りされます道了大権現がお祀りされているそうです。

さて帰りも同じ階段を下りていきますが、帰りは早く感じますね。しかしながら登ってくる人はまだまだ多くいらっしゃいました。

立木観音周辺には叶匠寿庵(かのうしょうじゅあん)という和菓子店のテーマパークである寿長生の郷(すないのさと)があり、5分程で到着しますし、石山寺も道中にあります。運動不足解消とお参りと同時に出来て一石二鳥です。

私のお寺めぐり/香華堂報241号[2022/02/01発行]

飛鳥寺(真言宗豊山派) 〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥682 
橘寺(天台宗)  〒634-0142 奈良県高市郡明日香村橘532

日本最古の仏像と呼ばれる飛鳥大仏を本尊とする飛鳥寺に行ったことがないことに気づき、2021年12月に行ってきました。飛鳥寺は奈良市内の南に位置し、京都市内から車で約1時間半の場所にあります。

飛鳥寺本堂


お寺の駐車場に車を止め、拝観料350円を支払い堂内に入ります。入ってすぐ目の前に飛鳥大仏が鎮座されています。飛鳥大仏は推古天皇が605年に詔して(しょうして)法隆寺の釈迦三尊像も造った鞍作止利(くらつくりのとり)(止利仏師)によって609年に完成した銅像の鋳造 釈迦如来座像で2008年、開眼1400年となります。
飛鳥大仏は幾多の災難に遭い、創建当時の部分は2015年からの大阪大学の調査で面部全体と、右手の上半部分のみとされたようです。他の部分は後補であるので、国宝に指定されず、重要の文化財の指定にとどまっているのは残念でなりませんが、それゆえ、村の皆さん初め今日来られた方々皆さんにも護持してほしいという思いから写真撮影をOKされているとのことでした。

飛鳥大仏

向かって右側には藤原時代の木造 阿弥陀如来坐像が左側には室町時代の木造 聖徳太子孝養像が安置されています。また本堂を出て西側には大化の改新のきっかけとなった乙巳の変(いっしんのへん)で中大兄皇子・中臣鎌足に暗殺された蘇我入鹿の首塚があります。

橘寺

次に橘寺に向かいます。飛鳥寺からは車で5分ほどのところにあります。橘寺は聖徳太子ご誕生の地です。ご本尊は聖徳太子像で本堂にお参りすると寺号の由来となっている橘の大きなローソク立が印象的なお寺様でした。境内には浄土真宗の有志によって建立された親鸞聖人像の銅像もありました。

ここ明日香の地には高松塚古墳やキトラ古墳、石舞台古墳の古墳群や亀石・猿石などの史跡が多くあり、一日で回りきれない程です。古墳群は国の特別史跡に指定されているので、高松塚古墳とキトラ古墳近くには付帯施設があり古墳内部の様子や発見の経緯などを詳しく知ることができます。また石舞台古墳は外からだけでなく内部にも入ることができ、その存在感に圧倒されました。強力なエネルギーを持つパワースポットとしても有名なようです。

明日香村は平たんな土地なので天気のいい日はレンタサイクルで回ることもできます。ボランティアガイドも頼めますので、より深く知りたい方や団体で訪れる場合には頼むとより一層知識が深まると思います。たまには悠久の歴史を感じて見て回るのもいいかも知れませんね。