私のお寺めぐり/香華堂報215号[2017,12/01発行]

上宮寺様(大谷派)

愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木34番地

         

今回は、お得意様の紹介で愛知県岡崎市の上宮寺様にお参りしてきました。 

事前に連絡していましたので、副住職である若院様が丁寧にご案内してくださいました。まずは庫裏でパンフレットをいただき、聖徳太子が仏法興隆のために全国を巡行され、この当地で霊樹を見つけられ、その霊樹にて自らの像を作られ、一宇を築かれて、後に天台宗となりましたが、23代住職の蓮行が親鸞聖人と出遇うことによって親鸞聖人に帰すことになったそうです。このようないきさつから上宮寺と名付けらたようです。

 次に本堂に向いました。本堂は近代的な建物で昭和63(1988)年の火災より再建されました。この本堂はインドの精舎をイメージして設計されたそうで、お寺の設計は初めての方に依頼されたそうです。そのため本堂正面上には「上宮精舎」と書かれた扁額がはめこまれています。

 本堂に入ると椅子式にで、向かって右の余間に聖徳太子像があり、その左には親鸞聖人が安置されています。聖徳太子像も火災で焼失したそうですが、焼失する前に修理をした仏師さんが聖徳太子像の図面を正確に採寸されていたらしく、その図面を元に再興されたようです。沓(くつ)がかろうじて残っていたので、それを体内に入れられたそうです。

 そして2016年に親鸞聖人750回忌法要を記念とし、親鸞聖人像を新調され京都の東本願寺本山からこの地まで徒歩で2週間かけて運ばれました。

また向かって左側の壁には親鸞聖人とこのお寺の開基である一如上人の二連座像の大きな写真が飾ってあります。これは実際には掛軸があるそうですが、貴重であるため、大きく複製したものを本堂内に掲げておられるようです。上段は蓮如上人、下段はこの上宮寺第30代住職如光だそうです。この如光という方は、当時の大谷本願寺が比叡山より弾圧され、親鸞聖人の御真影も奪われた時に、単身比叡山に乗り込み、相撲をとって勇力を見せつけ、御真影を取り戻したそうです。また、別の記録では比叡山に多くの礼銭を送り蓮如上人の危機を救われたそうです。そのような功績から御真影の裏に「三河如光ノ寄進」と記し、この掛軸を蓮如上人から贈られたそうです。

 次に宝物館を案内していただきました。数ある宝物の中で特に印象深かったのは、佐々木月樵先生の肖像画です。自分も大谷大学を卒業した身ですから3代目学長のお顔を拝顔すると身が引き締まる思いです。佐々木先生は清沢満之先生を師と仰ぎ、私塾「浩々洞」にも参加し「精神界」の発刊にも尽力しました。文部省の欧米視察でも宗教分野の代表として私立学校からの唯一の団員として参加したそうです。三河一向一揆の三ヶ寺、他の本證寺、勝鬘寺もおまいりできればと思います。

私のお寺めぐり/香華堂報214号[2017,11/01発行]

山口別院(本願寺派)

山口市小郡花園町3−7

         今回は、山口県萩市のお寺様に納品があったので、その前に山口市内に宿泊し山口別院にお参りしてきました。前泊で瀬戸内海側の新山口駅近くのホテルに宿泊して次の日の朝からお参りしました。新山口駅からは数分の所に別院はあります。案内によると山口県には、萩市に別院があり岩国市に教堂があり行政機関である教務所は山口市小郡に会館があったそうですが、昭和61年に統合されここ新山口駅近くに新たに建てられたそうです。そのため、2015年には別院設立30周年を迎えられました。

新山口駅からは車で数分で到着し、別院の回りの駐車場に車を止めておまいりに向います。仏塔(ストゥーパ)を模した丸い屋根に相輪が中央にそびえた近代的な造りになっています。中に入ると椅子式の本堂ですが、おまいりしていて一つ特徴的なものを発見しました。それは長押の上部分の壁部分や柱にかけて「藤の花」の彫刻が垂れ下がっていることです。これは建設時に輪番さんがこだわりで設置されたようです。仏具屋の自分としては誰が製作し、どのように設置されたか興味深く拝見しました。

その後は日本海に面した萩市へ向かいました。萩市へは山口別院から約1時間で到着します。萩市内に着くと萩別院の旧跡がないかと向かいましたが、今は幼稚園があるだけでした。まだ少し時間があったのでその幼稚園近くの「明倫学舎」という旧萩藩校明倫館の建物へ見学しに行きました。ここは元長州藩の藩校で水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並び日本三大学府の一つだそうです。ここで巣立って行った明治維新の主要人物は木戸孝允(桂小五郎)、吉田松陰、高杉晋作などで、武士の格を持つ士分しか行けませんでしたが、吉田松陰は持たない者に対し、私塾「松下村塾」を開き、伊藤博文、山縣有朋らを輩出しました。館内は各偉人の紹介や発明品の展示が多くあり見応え充分でゆっくり見学すると半日はかかりそうです。館内の案内人と話していましたら、なぜ萩の地に藩校ができたかというと、関ヶ原で負けた毛利輝元が当時辺境の地である萩に追いやられ、そこに藩校を建てたという経緯があるそうです。外の敷地内にも遺構が残され、興味深かったのは元々新明倫館の門であった南門です。この門は本願寺山口別院の正門となっていたそうですが、2004年にここの場所に寄付され戻ってきたそうです。また、萩市郊外には道の駅「萩往還」があり、吉田松陰記念館があります。萩は海に面した町で静かで修学旅行で多くの学生が訪れるそうです。また幕末の歴史がお好きな方にはたまらない町ではないでしょうか。

私のお寺めぐり/香華堂報213号[2017,10/01発行]

顕証寺(久宝寺御坊)

大阪府八尾市久宝寺4-4-3

         

今回は、お盆前にご住職にお会いしたご縁もあり、大阪八尾の久宝寺にある顕証寺様におまいりしてきました。電車で大阪駅そして天王寺経由で久宝寺駅から徒歩10分ほどのところにありました。駅を降りた案内板には天文10年(1541)頃につくられた町、久宝寺寺内町の看板があり、その中心が顕証寺であることがうかがえます。案内板を頼りに駅から歩いていきます。細い道を歩いて行き10分ほどすると信号のある2車線の道路が見えてきます。その向こうには住宅地から突き出た木々があり、この辺りかなと思いながら進んで行きます。そしてまた小道を進むと左側に「許麻(ごま)神社」というお宮さんが見えてきます。今までの経験上、神社が見えてくると、お寺は近いという法則があり、見上げますが竹林に隠れて御堂がなかなか見えません。しかしながら、小さなお地蔵さんがありその奥に石垣があるので、そこを進んで行くと、ようやく左手に大きな屋根の妻部分が見えてきました。左手の境内地にはお墓が多くあり、またお盆の時期でもありましたので、多くの墓参りの方々が来られていました。本堂正面に回り山門から入ります。山門も築地塀付の立派な唐破風仕様となっています。境内に入ると正面に本堂が見え、それはそれは立派で案内によると桁行11間梁行11間で大阪では有数の木造建築物だそうです。境内両側には親鸞聖人と蓮如上人の銅像が迎えてくださります。また境内地右手には光雲閣という門信徒会館が左手には石造の合葬墓がありました。この合葬墓は珍しい形をしていて正面には阿弥陀如来像が左右側面にはお名号が彫られています。裏面に昭和5年と刻まれていますので、その当時とてして画期的なデザインだったのではないでしょうか。本堂内に入ると天井が高く柱なども金箔が貼られ、たいへん荘厳な雰囲気です。正面上の扁額には「慧燈」の文字があります。ご存知だと思いますが、この文字は明治天皇が蓮如上人に対し明治15年に送られた諡号(しごう)で、このお寺が蓮如上人が開基であることから掲げられているのではないでしょうか。

本堂向かって右手の渡り廊下や東長屋、西長屋、庫裏、長屋門なども歴史は古く、特に庫裏は宝永三年(1706)と古く再建された本堂の正徳六年(1716年)よりも古いことが分かっているそうです。

また顕証寺様といえば、毎年の蓮如忌に撒かれる散華が有名で今年は住職法統継承式も兼ねて行われたので8万6千枚もの華皅(けは)が本堂を舞ったそうです。一度、その華やかな法要におまいりしてみたいものです。

五山の送り火/香華堂報212号[2017,09/01発行]

京都市内一帯                                      

京都市内一帯で8月16日に行われる京都五山の送り火についてお話したいと思います。京都の夏は祇園祭に始まり、大文字で終わるといいますが、夏が年々長くなってきていますのでその言葉が当てはまらないようになってきました。しかしながら最初は勢いよく燃え上がっていた大文字が、次第に消えゆくさまを見ていると気持ちはじょじょに「はかなさ」に浸ります。私が小さい頃は自宅の屋根の上に上がって「大文字」を見たり祖父母が下鴨に住んでいたので、葵橋からも見た記憶があります。今年は確実に見るため、京都駅発の観光バスに申し込んで嵐山から見学することにしました。夕方5時50分、バスは京都駅を出発し嵐山に到着、まずは夕食です。車内ではバスガイドさんが五山の送り火について詳しく説明してくださいます。その中で興味が惹かれたのは「妙法」と鳥居形のいわれでした。妙法は山の麓で天台と法華の僧侶が言い争いをして法華の僧侶が勝ったので「妙法」となり今でも妙法付近は法華の檀家さんが多いそうです。また鳥居形は後方の愛宕山の愛宕神社を表しているそうです。またバスガイドさんが見学ポイントを教えてくださいます。嵐山からは「大」の字と「鳥居」しか見えないのですが、「大」の字は渡月橋すぐ下流の中之島か、川向うの十三まいりで有名な法輪寺の広場が見学ポイントと教えてもらいます。

食事を終えると法輪寺まで急ぎ足で駆け上がり、お寺の見学ポイントとなる広場へ通じる門の行列に並びにいきました。「大」の字の点火時間である8時5分前くらいに開門しダッシュで広場に急ぎます。大の字はかなり遠くなのでどこが大文字山かわからない中、このあたりだろうと目星をつけて点火時間を待ちます。そのうちに8時になり点火し、かなり遠く大の字も小さいですが、遮るものもなく、時間の経過とともに大の字が力強くはっきりなっていく様子を手にとるように感じることができました。次は鳥居です。鳥居の見学ポイントは渡月橋の中ほどと聞いていたので、また急いで法輪寺を下りて向います。

しかしながら渡月橋はすさまじい人込みで歩くのがやっとです。そんな中、鳥居も点火してはっきりと形が浮かびあがってきました。人が多いので精霊を送るという厳かな雰囲気ではなかったですが、今年は亡くなった母の初盆でありしっかりと見送れたのではないかなあと思っています。いろいろな想いをもって送り火を迎えられますが、いつもでもこの伝統行事が伝統産業と同じように続いていってくれればと思います。

伝灯奉告法要参拝記②/香華堂報211号[2017,08/01発行]

伝灯奉告法要参拝記②

本願寺 浄土真宗本願寺派・・・京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町 
                                     

さていよいよ行事鐘が鳴らされ法要の始まりです。参詣席の結界向う側の外陣には多くの僧侶の方々が出仕され、その光景は圧巻です。法要は散華(念佛)→表白→正信念佛偈→念佛和讃→回向句と続きましたが、注目すべき点は正信念佛偈が「依経段」と「依釈段」でご門主、前門様が阿弥陀堂と御影堂とを代わられたことです。これを「ご転座」というそうで、前門様の昭和55年の伝灯奉告法要でも行われたそうです。またその「ご転座」の際に演奏され雅楽では聞きなれない楽器の音が聞こえてきました。案内によると金属製パイプを円筒状に配して木枠で囲み、両手の鉢を叩いて奏でる「響灯(きょうとう)と呼ばれるもので、風鈴を重厚にした感じの音色でウインドチャイムのような涼しげな音がします。法要が終わると、現門主大谷宗家一家に対するインタビューです。私たちがいる御影堂は阿弥陀堂の後で、その待っている間前回の法要の様子がビデオ上映されていました。そのビデオを見ていると隣に座っているご住職から「私が出るから写真撮って」と頼まれました。タイミングよく何とか撮ることができましたが、そのシーンは初参式の際に撮られたもので前裏方様の少し後方にいらっしゃるのがご住職です。その昔、お裏様のお世話係をされていたようです。さていよいよ大谷宗家のご家族が御影堂に入って来られました。まずは本願寺の東山にある京都幼稚園の園児から大谷宗家の前門様、前裏方、御門主の皆さまに花束贈呈です。現在、長男の敬様はこの幼稚園に通われているようです。そして、外陣正面に用意されている椅子にご着席なさいました。向かって左よりご門主、息子の敬(たかし)様、娘の顕子(あきこ)様 流豆美裏方と並ばれています。まずはインタビューの前に専如門主のご消息です。そしてインタビューです。司会の女性が代表でインタビューされました。まずはご門主、次に流豆美裏方そして敬様の順で質問されます。印象に残ったのは敬様が答えられる時に手話でしょうか、身振り手振りを交えてお話されたことです。やはり小さくてかわいいので敬様へのインタビューが一番盛り上がりました。

インタビューが終わると一堂、恩徳讃を斉唱し退堂されました。帰りはお茶所で解散となりましたが、せっかくなので、北にあるお土産屋さんでも見に行こうかと行きましたら、バスで帰られるご門徒様に対し、流豆美裏方様と敬様他職員の方々がバスに向かって手を振っていらっしゃるお姿に出会いました。すごく微笑ましい光景でした。これからお寺をめぐる状況も様がわりして行きますが、大谷宗家の皆さまが力を合わせて導いて行っていただけるのではないかと強く思った法要でした。

伝灯奉告法要参拝記/香華堂報210号[2017,07/01発行]

伝灯奉告法要参拝記

本願寺 浄土真宗本願寺派・・・京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町

本願寺の現門主(大谷光淳氏釋専如)は、去る平成二十六年六月六日前門主大谷光真氏(釋即如)の跡を承けて法統を継承し本願寺住職、浄土真宗本願寺派門主として務められてきました。その法統を仏祖の御前に奉告し、あわせて本願念仏のご法義の隆盛と宗門の充実発展とを期して内外に就任したことを披露するのが平成28年10月から平成29年5月末までに勤められたのが伝灯奉告法要です。初日の10月1日は真宗大谷派(本山・東本願寺)の大谷暢顕(ちょうけん)門首ら真宗教団のトップや、森川宏映(こうえい)天台座主、伊藤唯真(ゆいしん)浄土門主らも参列されました。私も浄土真宗本願寺派 京都下東組、聞光寺の門徒でありますので参加募集の案内をされましたので申し込み、5月27日にその法要に参拝してきました。法要は昼すぎの2時からですが、お寺には12時半に集合しました。本堂にはもう4人程の方が来られていました。本堂におまいりし、参拝グッズのカバンや首から下げる名札に名前を書き持ち物の確認です。中にはご門主の著書や参拝のパンフレット、本願寺の機関紙である大乗、熱中症予防の瞬間冷却パックやお菓子、靴袋などが入っていました。そして話が前後しますが、少しお供えをしましたので帰りに腕輪数珠をいただきました。その数珠もこの写真に入っています。少し時間の余裕がありましたので本堂で讃仏偈を上げて、いよいよ本山に向いました。5分程で本山に着くと、まず目を引いたのが阿弥陀堂門や築地塀(ついじべい)に飾られている三色幕です。その上、門の両側には真宗寺院ではあまり見かけない和幡が掛かっていました。5色の垂れで彩られた華やかなものでした。境内に入るとおみ足が遅い方がすでにお茶所に居られて合流し、まずは記念写真の撮影です。聞光寺様の寺族3人含め10人です。

そして、いよいよ御影堂に向いました。若さんである息子さんも本山に勤めて法要のお手伝いをされているので、他の職員さんから親しげにお声かけされておられました。参拝者は阿弥陀堂と御影堂に分かれて着席しました。当参拝団は御影堂の向かって左側前方の椅子席に案内され座りました。法要に先立ち挨拶、説明そして法話と続きます。法話は今まで法要の後にご聴聞することが多いので法要の前にお聞きするのは初めてのことでした。さていよいよ法要ですが、紙面の都合上次回にいたします。

浄土真宗ご旧跡めぐり/香華堂報209号[2017,06/01発行]

広島別院 浄土真宗本願寺派・・・広島県広島市中区寺町1−19

広島に旅行しましたので、まずは本願寺派の広島別院にお参りしました。広島駅に新幹線で到着し、各停止まりのJR普通電車に乗り換え横川駅に到着、そこから南に10分程歩いたところに別院はありました。回りもお寺が多く、住所を見ても寺町となっているので、元々多い地域なのですね。別院は鉄筋の本堂で門をくぐると空にそびえる三角形の大屋根が出迎えてくれます。ご存知のように昭和20年(1945年)8月6日広島市に原爆が投下され、この広島別院もすべての堂宇が焼失しました。再興された本堂を見上げると、よくぞ再興されたなと思いつつ多くの方々のご苦労や想いがこの本堂にはつまっているように思いました。境内には他の別院以上に、いくつもの忠魂塔や供養塔が立っています。

本堂に入ると、椅子式の近代的な様式で内陣もきれいに荘厳されています。参拝の栞によると、平成23年に大ホールを備えた門徒会館が完成し安芸門徒の中心道場として完成したようです。

またその栞には、元龍谷大学の学長をされていた信楽先生の興味深い一文が載っていました。表題は「安芸門徒の伝統」。(「芸藩通志」という幕末にできた安芸藩の文化や政治・経済全般にわたる調査資料の中で安芸の国の真宗信者は「家に神棚をおかず、病んで祈祷せず、墓をたてず、位牌もおかない」それが真宗門徒の習俗だというのです。

また別の記録によりますと、安芸の国では間引きをしなかった。赤ちゃんを殺さなかった。だから昔から人口が過多であったので、隣の岡山県へ「作州かせぎ」、「津山かせぎ」という出稼ぎがさかんでした。そして近代になると、海外移民としてハワイ、ブラジルにいきました。

戦前、広島市内の中学校にお世話になっていた頃には毎月16日の親鸞聖人の御命日に全広島市内にわたって魚屋も肉屋もすべて休業し精進していました。この広島では真宗信心が盛んであり、それが日々の生活までに浸透し、生かされていたのです。)

うちの家も真宗門徒ですが私が小さい昭和50年代までは家の仏壇に位牌が置いてありました。それが幕末の頃には位牌を置かないなどの真宗門徒としての教えが徹底されていたことに驚くと同時にその教えが全国に広まったのではないかと思いました。

おまいりを済ませ、広島名物の路面電車で厳島神社に向いました。広島の路面電車は各地の電車が走っており、京都のべージュとグリーンのツートンカラーの電車を見た時は懐かしさで感動しました。次の日は原爆資料館や原爆ドームを見学しましたが、小学生の息子には刺激がきつかったようです。次の日は呉の大和ミュージアムを見学し充実した2日間となりました。

浄土真宗ご旧跡めぐり/香華堂報208号[2017,05/01発行]

姫路船場別院本徳寺 真宗大谷派・・・兵庫県姫路市地内町1番地

前回の亀山御坊本徳寺様を後にして山陽電車亀山駅から山陽姫路駅に戻り、船場別院様には徒歩で向かいました。姫路にはいくつかの屋根付アーケードがあり、そこを通って向いました。正月なので、閉まっているお店が多かったですが、色々特色のあるお店があってこれも各地を訪れる面白味でもあります。アーケードを抜けると、船場川に出て小さな橋を渡り右手に曲がって行くと、仏壇屋さんがあります。本山や別院の近くには必ずと言っていい程、お仏壇屋さんがありますね。さてその仏壇屋さんを左に進み程なく行くと船場別院が見えてきます。本堂は典型的な真宗本堂の形式で入母屋造りの平入りです。説明板によると十七間四面あるそうです。境内は広く近所の親子連れが凧揚げされていました。まずは本堂に入りお参りです。本堂は大きく中も虹梁や長押も金箔押しされていてきらびやかでした。また本堂上には「本徳寺」と書かれた額がありその左端には「熾仁(たるひと)書」と書かれていたので、後日調べて見ると、江戸から明治にかけて活躍された有栖川宮熾仁親王によるものでした。これは明治二十一年に有栖川宮熾仁親王がここ船場別院の逗留した際に当時の住職が所望し揮毫してもらったようです。

外に出ると大きな石碑がありそれには「行在所(あんざいしょ)」と刻まれていました。この文字は明治天皇がここで休憩されたことを示します。この行在所は、本堂北側に未だ現存しています。また本堂・表門・鐘楼・大玄関の4棟は市指定の文化財に指定されています。また表門の元禄九年の石灯籠も同様に指定されています。

亀山本徳寺から東西分立で分かれたここ船場別院は興味深いことに「轉亀山(てんきざん)」という山号です。まさしく亀山から移ったことを示す山号だと思います。

境内には第1次世界大戦でドイツ人が捕虜になっていたこともあり、その捕虜がつくったとされるドイツのお城(望郷塚)があります。また、ここは姫路の教育機関としての役割もにない、姫路で初めての中学校がこの境内にあったそうです。現在も境内に船場御坊幼稚園があり、その意志が受け継がれています。姫路は姫路城を中心に活気のある町です。船場別院も2014年に門徒同朋会館も新築されより活動的になっています。姫路城を中心に歴史を探訪しに訪れるのはいかがでしょうか。

浄土真宗ご旧跡めぐり/香華堂報207号[2017,04/01発行]

亀山御坊本徳寺 浄土真宗本願寺派・・・兵庫県姫路市亀山324

正月休み利用して姫路にある御坊さん2ヶ寺、亀山御坊本徳寺様と船場別院本徳寺様に行ってきました。この2ヶ寺は蓮如上人の弟子で御堂衆であった空善が開基である英賀(あが)という地名にあった本徳寺が前身となります。江戸時代初期に亀山に移り本徳寺から大谷派が分立し船場に移りました。

まずは亀山本徳寺様のお話をしたいと思います。京都から約1時間半、姫路駅に降り立ちました。北側に出ると駅から白鷺城と呼ばれる白く美しい姫路城が正面に見えます。そこから西の方に進むと山陽電車の山陽姫路駅から2駅目の亀山で降りてすぐのところに本徳寺様はあります。塀に沿って歩いて行くと入口に向います。門前の道は石畳で整備されています。まずは立派な大門をくぐり境内に入ります。本堂は大門入ってやや左手にあります。この本堂は元々京都の西本願寺の阿弥陀堂の北側に並んで建っていた北集会所(きたしゅうえしょ)と呼ばれた建物で明治6年(1873年)3月に移築されたものだそうです。ゆえに明治維新はこの前ですからこの本堂が新撰組の屯所になっていたそうです。実際その刀痕が本堂右外側の柱にありましたが、触ってみることもできるのでいささかその時代を回想して興奮してしまいました。平成16年(2004年)6月9日10日にはここでNHK大河ドラマ「新撰組」の撮影が行われたそうで撮影風景のポスターも貼ってあり、山本耕史さんや藤原竜也さんの姿も見受けられました。本堂自体は浄土真宗の本堂には珍しい妻入りで奥行の長い建物です。お正月なので白幕が張ってありました。堂内に入ると、きれいに修復された直後のようでしたが、照明が少し暗めでしたので、荘厳な雰囲気でした。境内に出ると、堂内にはいろいろな建物があります。まず、本堂向かって左には蓮如上人の御木像が安置した中宗堂があります。

堂内に入ると正面のみ蓮如上人の木像が御厨子に安置されていました。また境内には兵庫県指定文化財である八角輪蔵を持つ経堂があり本山の経蔵と非常に似た造りとなっています。反対側には書院大広間などがありますが、特に大広間上段の間を見上げると素晴らしい花の丸の絵が描かれておりました。

今回お寺を回るのに手書きで書かれた案内地図を参考に回りました。印刷されたものが主流ですが、こうした手書きのものは心がこもっていて大変親しみがもてました。次回は船場別院をご紹介したいと思います。

私のお寺めぐり/香華堂報206号[2017,03/01発行]

勝林寺② 臨済宗東福寺塔頭・・・京都府京都市 東山区本町15丁目795

前回お話したように1月2日に座禅体験をしてきましたのでその続きをお話したいと思います。和尚のお話が終わりいよいよ座禅のはじまりです。説明を受けた通りに背筋を伸ばし両手をヘソの前に置き薄目を開けていたのですが、邪念が入り和尚がどこを歩いていらっしゃるとか他の人がどのように叩かれるのか気になり最初は数を数えるのを忘れておりました。そして様子を伺っていると、隣の方が1回目の座禅で叩かれていました。左右の肩を2回ずつ計4回バンバン、バンバンと叩かれていました。その音が結構いい音だったのでさぞかし痛いだろうなと思いました。1回目は様子を見る方が多く叩かれている方は数人でした。また斜め前に座った女性は警策を受ける体勢が浅かったので、和尚がもう少し屈むように手で肩を押さえておられました。座禅終了の合図は音木(拍子木のようなもの)を鳴らされ、続いてりんを鳴らされました。音を聞くと浅い眠りから目覚めたように思いました。2回目の座禅は、始まると今度は心を落ち着かせ、‘いーちにー’数えながら呼吸することができました。2回目はせっかく来たので叩かれてみようと思い和尚が近づいて来られたのを薄目で確認して合掌しました。1回目で女性が指導されているのを参考に両肩を深くさげて正面から叩いてもらいました。予想通り結構痛かったですが、気合を注入されたように思います。2回目は自分のように思った方が多いのでしょうか、あちらこちらで音が響きました。その後、法話があり本来の座禅は50分間、線香一本が燃え尽きる時間らしく、また12月1日から8日のお釈迦様が仏様となった日、成道会(じょうどうえ)までは坐禅三昧の期間で昼間に加えて夜9時からも外で座禅をなさるそうです。やはり修行はたいへんそうですね。すべての体験が終わるとオプションでお願いしていた抹茶と生菓子をいただきました。その後、正月限定でご開帳されている毘沙門天を拝観しようと思ったら、本堂には長い列が。私も並んでいるとそこは拝観のための列ではなく、御朱印をもらうためのものでした。こちらのお寺では2015年からそれまでの1種類だけの御朱印ではなく、季節ごとのご朱印があるようです。そうされた和尚の想いは一年に何回も足を運んでいただきたいということからだそうです。私は朱印はもらわずに、途中から行列を抜けて、ご本尊を拝観いたしました。毘沙門天像は高さ145.7㎝と等身大に近い堂々とした仏像です。内々陣の小さな部屋に正座して仏像の説明を受けましたが、その場所がご本尊に向かって斜めになっています。これは天上界に向かうことを表しているそうです。勝林院では座禅の他に写経や写仏体験もされているようです。色々な体験を通してまたここでもご紹介できればと思います。