光圓寺(京都市下京区松原通西洞院東入) 
角坊別院(京都府 京都市右京区 山ノ内御堂殿町25)
善法院跡(京都市中京区柳馬場通御池上ル虎石町45-3)


人は始まりがあれば、終りがあります。親鸞聖人の最後をお伝えするのは、偲びないのですが、きっちりお伝えしたいと思います。親鸞聖人は、62~3歳ごろ関東から京都に家族を連れて戻ってこられたといわれます。その頃京都では越後の流罪となった承元の法難から二度目の念仏禁止令がだされ、特定の場所に留まることができず、京都の街中を転々とされていたようです。これは高田専修寺にある『浄土真宗正明伝』にかかれています。 ご入滅の地には宗派ごとに見解が分かれていますが、そのすべてを伝えたいと思います。 まず、最初の説は当店からすぐ近く、松原西洞院の光圓寺です。光圓寺縁起によりますと、『元々は、親鸞聖人在世時に関白を務めていた九条兼実公(1149~1207)の別墅(べっしょ)月輪本庄花園殿の旧地であって、親鸞聖人が兼実公の息女であり、親鸞聖人の妻となった玉日君と過ごされた場所とされております。晩年にはこちらを住居といたしまして、この地で入滅されました。なお、現在地で光圓寺となったのは天文21年(1552)、本願寺10世証如上人の頃のようです。』とかかれていました。奥様の実家の別荘なら長く住んでいらっしゃっても納得できますね。 次に、真宗大谷派の説。親鸞聖人の孫である覚如上人が著した御伝鈔によると、『禅坊は長安●(●はにすいに馬)■(立へんに羽)【ふよく】の辺り 押小路南万里小路東』と書かれています。その位置が聖人の実弟である尋有(じんう)住坊である善法院であることからこの場所が入滅の場所とされています。現在は御池中学の西門そばに記念碑が建立されています。 一方浄土真宗本願寺派では、右京区の角坊別院を善法院跡としています。これは本願寺第二十代・広如上人が親鸞聖人六百回大遠忌法要を迎えるにあたり僧純という学僧に命じ「親鸞聖人絵伝」に記された聖人ご往生の地である善法坊の場所を調査させました。 僧純は「絵伝」に書かれたご往生の地「長安馮の辺」を現在の角坊別院の地とし、これを受けて広如上人はこの地を取得し、堂舎を建て聖人ご往生の地として顕彰されました。これが現在の角坊別院です。正門右横の蓑笠が印象的です。 当時、京都は朱雀大路を境に右京と左京に分かれていて、左右で同じ通り名が付いていたので、このようになったといわれています。いずれにせよ、京都の地にいらっしゃったことは確かです。それぞれのご旧跡を回ると、その遺徳をしみじみ感じ、お礼を申しあげなければなりません。親鸞聖人750回忌の年にいい機縁にお遇いしました。