赤羽別院親宣寺(真宗大谷派)
〒444-0427 愛知県西尾市一色町赤羽上郷中14
愛知県三河地方に出張に行った際に、西尾市に赤羽別院があることをお得意様のお寺様から教えてもらい、お参りに行ってきました。
まず、木造の大きな山門に圧倒されます。しかし、本堂は鉄筋製の本堂でした。案内によると、1945年(昭和20年)、三河地震により、山門と本堂以外の諸堂が全壊、その後、1959年(昭和34年)、今度は伊勢湾台風により、本堂が倒壊した結果、このような違いとなったそうです。
赤羽別院の歴史を振り返ると、この地は、平安末期に赤羽根城があった所で、山門近くにもその案内板が立っています。その赤羽根城の隣地に、蓮如上人が三河を教化するため、応仁2年(1468年)頃に念仏道場を建立し、近隣はたいそう賑わっていたそうです。
戦国時代になり、永禄三年(1560年)、「桶狭間の戦い」で織田軍に今川軍が敗北します。今川家家臣の吉良義昭配下であった赤羽根城主・高橋政信は、徳川家家臣の酒井正親によって攻め込まれ、永禄4年(1561年)、猛攻に耐え切れず落城しました。このような時代の中で念仏道場も荒廃し衰退の一途をたどり、次第に廃墟化していったそうです。
その後、江戸時代になり、元禄13年(1700年)、この地域出身の江戸公方御家人(えどくぼうごけにん)、本目勝左衛門親宣が両親の菩提寺を三河の地に求め、西尾藩主に請願したところ、赤羽根城跡地を含む念仏道場跡地が与えられ、元禄14年(1701年)八月、東本願寺第十七代・真如上人より「本目山」の山号と「親宣寺」の寺号が授与され、この地を菩提寺としました。
創建は元禄14年(1701年)ですが、親宣は宝永元年(1704年)、江戸にて病に倒れ68才で死去したので、一度も親宣寺の姿を目にすることがなかったそうです。しかし、山号と寺号にその名を遺すこととなりました。寛政十年(1798年)には、本願寺掛所となり輪番がおかれ、名実ともに別院の寺格を得ました。三河別院の創建が明治期なので、それまではこの赤羽別院が西三河の拠点となっていたことは歴史を辿るとよく分かります。
さて、山門右から境内に入ると車を止めることができました。丁度、掃除されている方がおられたので、ご紹介のお寺様のご縁で来寺したことを告げると、別院についてお話をお聞きすることができ、案内もしてくださいました。本堂は椅子式で近代的なつくりとなっています。他に、境内にはクリニックで有名な高須克弥氏の曾祖父が別院に多大なる功績があったため、それを記念に石碑が置かれ、本堂裏側には高須家の供養塔がありました。
この原稿を書くにあたって赤羽別院の歴史を調ましたが、建立には多くの方々が関わり、一方で災害や戦災にも見舞われたことを知り、そのご苦労を偲ばずにはおられませんでした。