引越先の中野之町が近所の岩戸山を有する岩戸山町の寄り町として1995年より復活したので、町内会の私も宵山にお手伝いにいきましたので、少し岩戸山のこととその体験談をお話したいと思います。元々岩戸山の寄り町と記録に残っているのは岩戸山町所蔵の祇園会式目並目録に「地の口米6斗 中野之町松原新町東入る」と載っているのと同時に中野之町町内定めにも寄贈したことから窺いしれることができます。いずれの記載も江戸時代の享保4年(1719)です。寄り町制度は明治5年(1872)に清々講社ができ、毎年補助金が交付されるようになって一旦廃止になりましたが、冒頭でお話したように1995年に復活しました。
私は宵山当日の夕方6時から10時までの当番でした。仕事を定時に切り上げ岩戸山に向かい「中野之町のものです。」と言うと粽売りをしているテントに入って「粽売りの椅子か朱印を押している椅子に座って」と言われます。事前に粽売りは若い女の子がするものだという認識があったので、朱印の椅子に座ります。朱印とは簡単にいうとスタンプラリーで朱印帳をもった方が各山鉾町を回り、朱印を押していくのですが、押すのに100円かかります。大抵は自分で押してもらうのですが、中には押してほしいといわれるので押すのですが、1枚の紙に3つのはんこを押さなければならず、一人の方を押すと次々に押してくれといわれ、蒸し暑い夜に汗だくとなりました。ゆえに行列が途切れるとご自分でおしてもらうように促しました。押しにくる方はご年輩の方が多いと思いきや、若い女性が多く、中には友達の分として2~3冊もっている人や海外の方がいらっしゃったことには驚きでした。後日聞いた話しでは「御朱印ガール」といわれる若い女性がパワースポットブームで神社仏閣を訪れることが影響し祇園祭でも多いのではないでしょうか。10時に粽売りなどは終了したのですが、朱印のところには10組ほどのお客様が並んだので、その方々が終るまでは居りました。役目を終え、帰ろうとすると11時頃に日和神楽(ひよりかぐら)という鉦を演奏して各寄り町を回われるので、お迎えしてといわれたので、家に帰り一休みしてからお迎えしました。ちなみにこの祇園祭の鉦を製作しているのは佐和理や勘三郎りんを製作している職人さんです。
今年は後祭りが私の生まれた昭和41年(1966)以来の復活やその後祭りに巡行する大船鉾が150年ぶりに復活し、祇園祭にとっても私にとっても思い出深い祭となりました。