所在地 愛知県碧南市浜寺町2-1-2/西方寺境内地

前回、曽我量深記念館を特集に続き今回は、清澤満之記念館を境内地に有する西方寺様に訪ねてきました。実は西方寺様のご住職とは長年お世話になっているお得意様であり、この清澤満之記念館にもかつて案内していただいたことがあります。

車がお寺に近づくと、真っ向かいの美術館では富岡鉄斎展を開催していましたので、平日にもかかわらず、多くの見学者が来館されていました。後ほどお聞きすると美術館は藤井達吉現代美術館といい、館長さんが才覚のある方で多くの有名な方の作品展を開催されているようです。

さて、境内に車を止めてまず外観を拝見したり写真に収めたりしました。西方寺様は太鼓堂や山門に趣があり、景観としてもたいへん素晴らしいです。そして境内に戻ろうとしたところご住職がお帰りになり、本堂をまずおまいりいたしました。本堂は近年修復されたのできれいでまばゆいばかりです。

それから右側の方に行き、清澤満之先生の居宅に向かいます。案内によると、清澤先生は宗門の改革運動や東京での真宗大学建設等に尽力されていたので、ここに滞在されたのは明治31年5月より約1年と死去の前年、明治35年11月より約半年の間だそうです。一階の満之終焉の部屋、そして2階執筆の部屋を見学いたしました。窓を開けていただいたので、風が心地よく吹きぬける気持ちのいいお部屋でした。次にいよいよ記念館へと参ります。記念館は2004年に開館し一階に展示室とその奥に収蔵庫2階は研修室になっています。展示室ではまず清澤先生の銅像が迎えてくれます。そして輪袈裟や数珠、原稿や日記などが展示されています。

ここで簡単に清澤先生の略歴を紹介します。清澤先生は尾張の藩士徳永永則の子として生まれ、医学を志しますが、家が貧しかったため、道半ばで退学します。そして、同級生の僧侶のすすめもあり京都の東本願寺育英教校に行きます。その後、東京大学予備門への留学し首席となり、東京大学文学部を卒業し、京都尋常中学校の校長として赴任し、西方寺の次女やすと結婚、しばらくは裕福な生活を送りますが、その生活に満足せず、自ら禁欲生活に入り行者生活をします。その後、身体をこわし結核になります。少し容態がよくなると、『教界時言』を創刊し宗門改革を訴えますが、除名処分となります。その後東京で私塾『浩々洞』を開設し『精神界』を発刊し初代真宗大学の学監に就任します。41歳で没しました、『我が信念』を発行し、最後まで自分に厳しい方であり、大谷大学でも私の先生である寺川先生も心酔されていました。『自己とな何ぞや』を晩年まで究明し自己に厳しい真の真宗学者であったように思います。