富山別院 
本願寺富山別院(富山市総曲輪2丁目8-29)
真宗大谷派富山別院 (富山市総曲輪2丁目7-12)

 

9月になろうとするのに、まだ暑い日が続きます。そこで、涼しい地方の別院シリーズ第二弾、東西の富山別院を訪問した記事をお送りします。

富山はよく行く機会があります。なぜなら、妻の実家が富山だからですが富山市内に行き富山別院の本堂を見たのは4月の花見のときでした。富山城のまわりの川を遊覧船で往復し、川の両側に手にとるように桜が咲き誇り、それはそれはきれいでした。その時に車を止めたのが東別院の近くだったので『大きな本堂だなあ』と思った記憶があります。

実際のおまいりしたのは正月過ぎでした。冬真っ盛りでしたが、境内にはあまり雪はありませんでした。境内へ駐車しました。ここは有料の駐車場も兼ねていらっしゃるようです。車を止めて、本堂へおまいりです。9間の大きな本堂で欄間は東本願寺御影堂と同じ天人の彫物が配されています。御宮殿は東の特徴である二重屋根ですが、少し先端が反った点が特徴的です。

真宗大谷派富山別院は創立以来、幾度も大きな困難に見舞われてきました。それが本堂正面の門の脇にある石碑に見ることができます。それには明治3年富山藩合寺令事件が起こり藩の命令で寺が打ち壊され、仏具が武器に回されるということがありました。それを見た松任本誓寺(現白山市)の住職松本白華が政府、藩そして本山に次々に意見書や調査書を出して方針を変えさせ、富山の仏教を復興させる大きな一因となったようです。富山の人々はその恩を忘れず、明治13年に説教所そして明治17年に別院となった時に百華に碑文を書いてもらいました。その石碑は一部破損していますが、今でも大切にされています。

一方、本派の富山別院は東別院の門前を出て左手に歩くこと3分、モダンなデザインの本堂が見えてきます。この現本堂はここに至るまで4度焼失の憂き目に合いましたが、富山空襲の後、昭和42年に完成落慶法要を勤められここにいたったようです。東別院と同じように明治十七年に別院としての別院昇格の許可となりましたが、冒頭に記しましたように、4度の焼失に遭われました。幾度と行われた再建の中で特筆すべき再建は明治32年に富山市で起こった大火で焼失した際に、佐藤助九郎という現佐藤工業の創業者が2ヶ月前と目前に迫っていた蓮如上人400回忌法要という大行事を控え、昼夜の突貫工事で無事再建された工事です。その上、その請負代金を受け取った上それを寄付したそうです。また翌年、その工事の謝意を表すため、その当時の本願寺宗主明如上人が下り藤の入った羽織を佐藤助九郎の自宅まで届けたそうです。それゆえ現在も佐藤工業の社章は下り藤をデザイン化されたものになっています。

松本百華と佐藤助九郎、2人の熱い思いがこの富山別院には息づいているのだなと思うと、こちらまで胸が熱くなる訪問でした。